たこぶ・ろぐ −日本一お気楽な50歳−

【終末のフール】伊坂幸太郎(集英社)

題名を見て、目次を見て、ひょっとしたらふざけた小説なのかと思ってしまった。8つの章のそれぞれが「終末のフール」「太陽のシール」「篭城のビール」なんていう語呂合わせのような題名だし。ところがこれが、その題名それぞれにしっかりと意味の通った連作短編集なのだった。
「8年後に小惑星の衝突で地球は滅亡する」といわれてから5年後(つまりあと3年で滅亡する)の仙台が舞台。「ヒルズタウン」という名のマンションに住む人たちが織り成す人間模様。
SFなんだけど主題はSFの謎解きや恐怖じゃなくて、「あと3年で滅亡する」となったら人間はどうするか、という問題に向き合っている。それは「余命3年」と宣告されたらどうするか、ということと結びついているような気がする。そして「死ぬまでの日々をどう生きるか」という大きな問題にまで発展しそうだ。
死を目前にして、人間は許しあえるか、未来に希望を持てるか。
それぞれが独立した話なのだけれど、微妙に絡み合っているのも、うまいなあと思う。伊坂幸太郎を読むといつも「うまいなあ」とうなってしまうのだけれど。
ただのSF小説なら、最後には地球は滅亡して、とか、結局は助かって、とかいう話が最後にきそうなんだけど。それと、この計算はこういうことから導き出せるとか、あるいは惑星を脱出! とか。そういう物語には作者は興味がなさそうだ。作者の興味はひたすらに「人と人とのつながり」にあるらしい。地球がどうなるかということより、そのとき人々はどうするか、のほうが。確かにそっちのほうが面白そうだ。この連作を読んでそう思う。
8つの中では、「演劇のオール」が一番気に入ったかな。伊坂幸太郎は、最後のひと言がいつも決まっている。かっこいい。「演劇のオール」には、やられた。


天気予報では今日は午後からはまとまった雨が降るでしょうと言っていたのに、結局はほとんど雨にあわず。会社からの帰り、駅から家までの間でようやく傘の出番となった。朝のうちは晴れ間も見えるくらいの天気だった。そして暖かかった。汗をかきつつ歩いていたのだ。4月中旬の気温だったらしい。体調に気をつけなければ。

暖かくなったのか、それとも・・・

今日からしばらくは、気温の高い日が続くそうだ。確かに朝、曇ってはいたけれどそんなに寒くなかった。これは快適な一日になるかと思ったのだが。会社に着くと、暖房がゆるくなっていた。気温が上がっているのだから当たり前だが。いつもはやや高めの社内温度に合わせて、薄着で仕事をするようにしているのだが(下着とシャツという2枚のみ)、今日はそれではやや寒いくらいであった。温度調節は難しい。季節の変わり目は体調を崩しやすいが、外の気候に体が慣れていかないからなんだろう。慣れるのには時間がかかる。人間の体は柔軟なようで、結構頑固なのだ。

朝型人間になろうと思っているのだが、どうもうまく行きそうにない。ぼちぼち諦める時期に来ているのかも。夜型でも朝型でも、起きている時間、寝ている時間は相対的には変わらないかもしれない。多くの健康記事で「朝型がよろしい」と書いてあるけれど、どこまで本当なんだか。夜型人間より朝型人間のほうが長生きするんだろうか。長生きできるかどうかは遺伝子の出来ひとつという話も聞く。長生きできたとして、それで幸せかどうか。長く苦しい人生を送るだけかもしれない。そう考えを進めてくると、どういう一日の過ごし方をするかなんて、どうでもいいような気がしてくる。寝たいときに寝て起きたい時間に起きる、というのが一番健康的(少なくとも精神的には)なのかも。ということで納得して今日も寝るのである。おやすみなさい。

【アバウト・シュミット】(2002年アメリカ)

午前中、洗濯と読書。午後から録りためたビデオを見る。NHKのど自慢のスペシャル(去年の年末の放送)。もうひとつが「アバウトシュミット」。ジャック・ニコルソン主演。たっぷり2時間、楽しんだ。
保険会社を66歳で定年退職したウォーレン・シュミットが主人公。仕事がなくなると何をやっていいんだか分からなくなる。42年間連れ添った妻は、ここぞとばかりにこれからの人生を楽しもうとするが、それにもついていけそうにない。テレビでたまたま見た、恵まれない子供たちの支援プログラムに応募し、アフリカに住む6歳の子供の養父となる。妻との生活に苛立ちを覚えるが、そんな矢先に妻は急死。とたんに何もできなくなる自分にさらに落ち込む。離れて暮らす娘とその婚約者のところへ行こうとするが。
仕事仕事でやってきて、定年になったらぽっかりと開いてしまった穴に落ちてしまう感じ。こういう人は日本にも多いでしょうなあ。それもこれも自業自得。働いていたときの自分はよくできた人物であったのに、という過信がすべての元凶であるのに、それに気づかずに過ごしてしまっている人のなんと多いことよ。
シリアスな内容をコミカルに描いてて、とても面白かった。コワモテのジャック・ニコルソンが、威厳を保とうとして何もかもうまくいかないおっさんになりきっていて、とてもいい。

それにしても。こないだから東野圭吾とか伊坂幸太郎とかを読んでいるんだけれど、どれもこれもが人と人とのつながりがどういうものかを考えさせられる内容なのだ。この映画にしてもそう。前に見た「ザ・ウェザーマン」にしてもそう。「カポーティ」だって、観ようによってはそういう主題が見えてくる。というか、これって人間の持っている根源的なテーマなのかも、と気づかされた。
人間は社会的な動物で、必ずといっていいほど他者とどこかでつながっている。「かごに乗る人かつぐ人、そのまたわらじを作る人」ではないけれど、他人とは関係ないよといいつつも、無関係で存在することはできない。その一方で、何もかもを共有できるわけでもない。感情は(親兄弟親戚夫婦であっても)同一になることはない。それぞれの人間は孤独の道を生きるしかない。この「孤独」と「人とのつながり」の両方を併せ持っているのが人間なのだなあ。
そして最近は、その「つながり」を求める人が多くなってきているような気がする。渇望しているともいえるか。テレビのドラマ、バラエティ、小説、映画。いろんなものが、人と人とのつながりをどうやって求めていくか、をテーマにしているような。そういうドラマや小説が売れているような気がする。みんな孤独には耐えられないのだなあ。まったくのひとりの世界には、死ぬまでなりようもないのに。

忙しい土曜日

土曜日は毎週、何かと忙しい。図書館へ行くのはほぼ毎週。図書館で本を借りられる機関は2週間なのだが、ふたつの図書館(市立図書館と大学の図書館)を利用していて、それぞれが1週遅れで返却日がやってくるのだ。そういうわけで毎週どちらかの図書館には行っているわけ。今日は大学の図書館。昨日の夜、ひょんなことから夜更かしをすることになって(詳しくはぶたこな日々を参照してください)、寝たのが3時半すぎ。これで朝起きられるのか、と思ったけれど、土曜日は休みなんだから早起きなんかしなくていいのだった。起きたら9時半だった。つまりは6時間近く寝ていたわけで、それって普通の健康的な睡眠時間ではないか。夜更かししてもその程度なのだなあ。と納得しているうちは朝型人間生活には縁がないことになるだろう。

図書館とともに、土曜日はテレビが忙しい。ドラマ、バラエティ、楽しい番組が目白押し。ついさっき「ケータイ大嬉利」が終わったところ。これで今日一日のテレビ三昧は終了。映画「フラガール」も見たかったけど、他の番組と競合していたのでHDに収録。そういえばHDには年末年始に録画した映画やらバラエティやら、まだ見ていない番組がいっぱいだ。今週末から始まるオリンピック中継に備えて、HDの空き容量を確認しておかないと。いらない画像はさっさと見てさっさと消さないと。来週はHDクリーン週間になるかも。


それにしても今日は風が強くて、寒い一日だった。どれくらい強かったかというと、図書館へ行くのに玄関のドアを開けようとしたら、風で押し戻されるくらいに強かった。さらにベランダのタコ足物干しが「かたん」という乾いた音を立てて倒れてしまった。隣の家の洗濯物が知らないうちにうちのベランダに引っかかっていた(隣のベランダに投げ返した)。物干しは、元に戻してもまたすぐに倒れそうだったので、たたんで横倒しにしておいた。朝の早いうちに洗濯物を取り入れていて正解だった。
今夜が寒さのピークで、明日から徐々に暖かくなるらしい。

【犬はいつも足元にいて】大森兄弟(河出書房新社)

芥川賞候補だったのだねえ。読んでみると確かに芥川賞のにおいがする。もちろん、本人(たち)はそんなことを考えて書いているのではないだろうけれど。
中学生の僕は、母と二人暮し。父親は母とけんかして出ていった。その父親から押しつけられたような犬の散歩が日課。同級生のサダはうさんくさい。これらの、周囲の人間との関わりが、ある種淡々と語られる。
これが受賞しても、僕は文句なかっただろう。中学生が語るにしては現実離れしすぎているのは、おかしいかもしれないけれど。妙に大人っぽいし。語りも行動も。でもそれを上回る面白さがある。とどのつまり、こういう話が好きなのです。


今週の収穫。毎日の二駅ウォーク。行きも帰りもというのは今までになかったことかも。寒い日が続いたけれど、幸い天気がよかったのと、電車の遅れがそんなになかったのと、仕事がいつも定時で終わってくれたことのおかげ。電車は、昨日も今日も乗換駅で3分ぐらいの遅れがあったのだけれど、降りる駅についたころには遅れがなくなっていた。JRの不思議。それぐらいのタイムロスは取り返せるようなダイヤを組んでいるのだろうか。日本の鉄道は時間に几帳面なところがうれしいけれど、あまりにきっちりしすぎるといつかの事故のようなことになるから、時々は適当にしてくれてもいいと思っている。それでも定時に駅に到着すると「お、さすが」と感心してしまうのだが。二駅ウォークのおかげで、今週は体調よろし。べつに歩いていないときでも体調はいいのだが。それでは歩いている甲斐がないので、健康なのは努力の証と思っていたほうが気分がいい。それに行き帰りの電車賃だけで400円も得をしている。これは普段の昼食の1.5倍の価値がある。健康の維持と財政の維持には、やはり歩くのは効果があるのだ。このところ、新聞紙上でいろんな人の健康法なるものを読む機会が増えたような気がする。自分が歩いているから、ほかの人はどうなんだろうと興味を持って見ているからだろう。興味がなかったら読み飛ばしていただろう。そこでよく見かけるのは、「朝起きて、1時間ぐらいは散歩します」という話。これはいろんな人が書いている。山川静夫も三国連太郎も書いている。三国連太郎の健康の秘訣は、コウジュンじゃなくてウォーキングなのではないかと思う。まあ歩く元気をコウジュンから得ていると言われればそれまでだけど。僕はコウジュンを買うつもりはないので、それに歩くのに自分の気持ち以外の障害はないので、ただただ歩くだけの毎日。ところが行き帰りの時間を合計しても1時間にはやや足りない。せいぜい45分から50分。この差は小さくないかもしれない。毎日歩いていると歩くことに慣れてきて、それくらいの距離、時間歩くのは、たいしたことではなくなってきているのだ。さらに健康に、と思うと、もっと自分に何かを課さなければならないのかもしれない。そこで問題になるのは、「気持ち」だ。さらに健康に、という気持ちになるかどうか。次はウォーキングじゃなくて走り出すか。それは多分ないだろう。しんどいし。と、こう思う段階ですでに気持ちは萎えている。この程度の思い入れでは、現状維持がせいぜいだ。しばらくはこれで満足しておこう。ああ、ようやく気持ちが落ち着いた。

立春

暦の上では春、とは天気予報のおじさんかおねえさんかおにいさんがしょっちゅう口にする言葉だ。それでも寒いですねえ。確かに。だいたい2月が暖かかったらおかしいだろう。それでも「春ですねえ」というのはおかしな話だ。どうしてこの日が「春」なのだろう。ひょっとしたら、昔と今とでは「春」の感覚が違うのかもしれない。昔は「春」は寒いものだったのかもしれない。もともとの人々の感覚の違いというのはあるかもなあ。「立春」という暦ができた時代に生きていた人は今はまったくいないのだから、その真意は分からない。風習と暦の数え方だけが残る。

昔から蝶々結びが苦手である。しっかり結んだつもりでもすぐにゆるんでしまう。本屋に勤めていたころ、本を詰めたダンボールにビニールの紐をかけて縛るのだが、その結び目がいつもゆるんでしまっていた。周りの人たちにはさぞかし迷惑をかけていたんだろう。
今日も歩いている途中で、靴の紐がほどけてきてしまった。ぼくは足の甲がとても低いので、靴の紐はぎゅっと締めないと脱げてしまいそうになる。ゆるんでくるとほとんど靴がスリッパ状態になる。それでも歩けないことはないんだけれど。どうせゆるんでくるんだからと諦めて、はじめからややゆるめに締めるときもある。そうすると不思議なことにそれ以上はゆるんでこない。それでもいいんだけれど、やっぱりきゅっと紐がしまった靴で歩きたいではないですか。というわけで紐を締めなおして歩くんだけれど、やっぱり途中でゆるんでしまう。今日は会社に行きしなと帰りしな、それぞれで1回ずつ途中で締めなおした。まあこれくらいのことはどおってことはないんだけれど。子供のときにしっかりと紐の締め方を習っておくんだった。いまさら後悔してもはじまらない。はじまらないから、まあええかと思ってしまう。そして気がつく。この「まあええか」というのが子供のころからの習慣で、だからきちっとした紐の締め方も手につかないまま大人になったのだと。それでも、まあええかと思う。そして立春の、寒いけれど日が暖かい歩道の上で、靴の紐を締めなおす。

【トリツカレ男】いしいしんじ(新潮文庫)

ひさしぶりにいしいしんじの本を読んだ。
ジュゼッペは何かにとりつかれるとほかのことが目に入らなくなる。オペラにとりつかれて、話す言葉がすべて歌になり、身振りも舞台役者のようになる。かと思うとあるとき突然に三段跳びにとりつかれ、どこへ行くにもホップ、ステップ、ジャンプ。それから探偵、サングラス集め、探偵・・・・ハツカネズミにとりつかれて、部屋中いっぱいに飼っていたが、今はそのうちなぜかジュゼッペと話ができる一匹しか残っていない。そしてある日ジュゼッペは、公園で風船を売っているペチカという女の子にとりつかれる。
不思議なお話の展開はいしいしんじの世界。大人の童話ともいえるけど、意外な展開、そして緻密な構成が見事。登場人物それぞれがとても魅力的で、悪人が出てこないのもいい。短いのですぐ読めるし。

【路上のソリスト】スティーブ・ロペス(入江真佐子訳・祥伝社)

ロサンゼルスの貧困街でバイオリンを弾いていた男は、ジュリアード音楽院の出身だった。統合失調症でジュリアードを中退。その後は社会から見放された(彼自身が見放したか)生活を送っていた。たまたま演奏しているのを見かけたコラムニストの著者との交流が始まる。その2年間の記録。
事実は小説よりも奇なりとはよく言われるけれど、確かに事実ほど面白いものはない。2年間の交流の間に、精神病に対する考え方や患者への接し方、そのほかいろんなことを著者も学ぶ。ホームレス生活を送っているナサニエルを何とか救いたいと奔走するが、それが彼にとって幸せなことなのかどうか。調子がいいときもあれば悪いときもある。それを受け入れるまでの苦労。結局ロペスはそれを受け入れられたのか。
普通の小説なら、立ち直るきっかけが見える形で残ったりするんだろうけれど、実際はそう簡単ではない。それは分かっているのだけれど。
それと。幸せな生活とは何だろうと考えてしまった。他人から見れば哀れで惨めな生活であっても、本人がそれを望む限りとやかく言うものではないのかもしれない。救いたいと思う思いは、自分が弱者ではないことの思い上がりかもしれない、などと。
極端な感情移入がない分、こういうルポものにしてはとても読みやすい。これがこの人のスタイルなのかも。さすが記者。そしてさすが入江真佐子。

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