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クレンペラー指揮のベートーヴェン

いつも利用している図書館が、施設の老朽化により一時閉鎖することになった。10月末で一旦閉館し、12月末に別の場所で「暫定オープン」するという。「暫定」とはなに? と思ったら、オープンするのはショッピングビルの3階の一角。当然閲覧室などはないんだろうなあ。蔵書も減るんだろう。まあいつもウェブで予約してから行ってるから、とても不便になるということはないんだけど。ただ歩いてすぐのところにある今の図書館から、10分ぐらいのところにあるショッピングビルになるというのが、ちょっと不便。

で、その影響ではないんだけど。この前借りてきた本6冊のうち、よく読めば2冊はすでに読んだ本だった。さらにその内の1冊は、6割がた読んだところでようやく「あれ、前に読んだような...」と思って、このブログを検索したら出てきたのだった。3年前に読んだのだった。3年で内容をすっかり忘れてしまうとは。まあ読書はその時楽しめればよいという面もあるし、忘れていたらもう一度読むというのも悪くない。映画だって気に入ったものは何回も見るやないか、と自分に言い聞かせたりする。

最近、昼休みにはクラシックを聞くようになった。今まで聞いてこなかったような演奏家の演奏。特に古い演奏を楽しんでいる。
オットー・クレンペラー(興味ある人はwikiで調べてください)は、ドイツの指揮者なんだけど(たぶん。自分もwikiで調べろって? めんどくさいから勘弁して下さい)、なぜかイギリスのフィルハーモニア管弦楽団との録音をたくさん残している。
このフィルハーモニア管弦楽団というのは、どうやらレコーディングを主に行うために腕っこきの演奏家を集めた、という経緯があるらしい(たぶん。たぶんばっかりですみません)。
ヨーロッパの伝統あるオーケストラ(ウィーン・フィルとかベルリン・フィルとかコンセルトヘボウとか)とはちょっと違う匂いがする(ような気がする)。
どこがっていうのは難しいけど、ありきたりな表現で言うと「モダンな感じがする」なあ。パイプオルガンに対する電気オルガンのような。というと無機質とか、そういうふうに捉えられかねないんだけど。そういうのを凌駕するくらいの技術力とアンサンブル力を持っている(ような気がする)。

で、特に気になるというか特徴となるのは、今時には珍しい「第二バイオリンを右側に配置する」並べ方らしいのだ。バイオリンの音が(もちろん主には第一バイオリンがメロディを受け持つんだろうけど。いや、まあいろいろですけどね)左右から聞こえてくる。
これ、最初聞くと「おっ」と思ってしまいますね。

って、最初にフィルハーモニア管弦楽団の演奏を聞いたのは、もちろんレコードだけど、もう30年以上前で、確かクレンペラー指揮でマーラーの「大地の歌」だったと思う。これが僕のフィルハーモニア管弦楽団の初体験。そこで「おっ」と思ったわけ。

で、ようやくベートーヴェンの話になるんだけど、最近初めてこのコンビでのベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」を聴いたのです。1959年のステレオ録音です。
するとねえ、不思議な感覚になったのですよ。
今までたくさんの「英雄」を聞いてきたんだけど、左右にバイオリンが分かれた英雄を聴いたのは初めてだったかも。これがとても面白かった。

いままでは第一バイオリンの影に隠れていた旋律が、明確に聞こえてくるんですね。いや、きっと普通の並び方でも明確に聞こえてきてたんだろうけど、同じ方向からバイオリンの旋律が聞こえてくると、それが第一なのか第二なのか、稚拙な耳では聞き分けられないのです。それが左右に分かれると明確に違うことをやっているのだということがわかる。
なんか新鮮でした。

そらもちろん、並び方だけの問題じゃなくて、演奏そのものがそれぞれの楽器の(パートの)旋律をくっきりと歌わせるからこそ、その面白みも浮かび上がってくるんでしょうけどね。
それと、それぞれの楽器が明確に聞こえてくる録音の良さもあるんでしょう。

で、続けて同じコンビでの第7番の交響曲を聞いてみたんですけど。
これが。。。。
鈍重すぎてどうにも。。。。
という演奏でした。
ま、クレンペラーという指揮者はそもそも「重厚に」「ゆったりと」悪く言えば「鈍重に」演奏するタイプの人らしいんですけど。「英雄」ではそれが音楽のひだをくっきりと浮かび上がらせるのに成功していたように思うんですけど。第7番はそういう「ひだをくっきりと浮かび上がらせる」タイプの音楽では、ないですね。

一つの方法がうまくいったからといって、それがすべてに応用できる、という風にはならないのが音楽の面白いところでしてね。
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オペラ「道化師」

ミラノスカラ座のオペラを、何夜か連続でBSで放送していたのを、ようやく見始めたところ。
オペラは、見るのに時間がかかるので(3時間ぐらいすぐにかかる)、なかなか見ようという気にならない。
その点、この「道化師」と、その前に放送していた「カヴァレリア・ルスティカーナ」は、両方とも1時間ちょっとという手頃な(^◎^;)長さ。というわけで、2日に分けて、それぞれを見ました。

「カヴァレリア」は、以前に合唱でダイジェスト版に出たことがあるので(演奏会形式)だいたいの筋は分かっている。田舎町の男女の四角関係から起こる悲劇。実に他愛のない話なんだけど、マスカーニの、奇跡とも思える名曲・名旋律ぞろいで、とても美しい作品になっているのだ。
今回の演出は、ほとんどが教会の中のような雰囲気。まあそれもありなのかも。最後にサンテッツァがすごい睨みをきかすところが怖かったなあ。

「道化師」の方は、実は初めて観たのだ。筋も殆ど知らない。ある町にやってきた道化一座。座長の道化師カルロは妻の不倫を疑っている。なんとか相手の男の正体を突き止めようとするのだが、妻は口を割らない。そのうち道化芝居が始まるのだが、その芝居がなんと、不倫中の妻と間男を見つけてしまう道化師、という筋立て。初めのうちは芝居を演じるカルロだったが、芝居のセリフと自分の感情がない混ぜになってしまい、ついに妻にナイフを突き立てて浮気相手を白状させてしまう。そして芝居を見に来ていたその男もろとも、その場で刺し殺してしまうという、なんともはやな物語。

これだけ筋立てを書いたのは、役者(歌い手)の演技がとても素晴らしく、深く印象に残ったからだ。ときに客席まで使う演出は迫力も現実味も十分。ありそうな話だし。もちろん歌も素晴らしかったよ。


この2作、よく似た作風で(芝居の構成とか、合唱の使い方とか)、よく一緒に演奏されるのだね。短いのが2作で、ちょうどいい具合の長さになるっていうのもあるのだね、きっと。
そして不思議なことに、この両作の作曲家、マスカーニもレオンカヴァッロも、他の作品をとんと聞かない。これだけ素晴らしい作品を作ったにも関わらず、だ。

音楽の神様の気まぐれを思ってしまうなあ。

マーラー:交響曲第10番(アダージョ)

いつかは見るだろうと思ってとりあえず録画しているテレビ番組が、わんさかと残っていて(テープではなくハードディスクのなせる技。手間なく録画できる)、野球もない毎日で順繰りに消化して行っている。

NHK-BSプレミアムで放送された音楽会の幾つかは、見ごたえがありそうなものをとにかく録画している。今日なんとかそのいくつかを見てみた。

NHK交響楽団の演奏会は、指揮がアシュケナージ。これだけでちょっと興味が失せる。あまり好きな指揮者ではない。指揮の仕方も音楽も。プロコフィエフとシベリウスのプログラムだったが、プロコフィエフのピアノ協奏曲を弾いているピアニストが、どうも力み過ぎで、見続けるのが辛くなって途中でやめた。

今年の4月に開かれた、ルツェルン音楽祭でのマーラーを聴いた。これは東日本大震災への追悼の意を込めて、演奏会とは別にオープンリハーサルで演奏されたそうだ。

僕はマーラーファンだが、第10番は聴いたことがなかった。文字どおりのマーラーの遺作。完全な形で曲が残せたのは1楽章だけで、ほかはピアノスケッチ程度までしかできなかった。ということぐらいは知っている。演奏される機会も極端に少ないだろう。
僕はマーラーファン、と書いたけれど、すべてがオーケーというわけでもない。第5番は何度も聴いてるんだけど、途中で嫌になる時が多い。長いからね。第4番もほとんど聴いてない。地味だから、という理由ではないと思うくらいに、よく分からない。聴く機会がないのだ。
一番好きなのは9番。いつ聞いても「生きててよかった」と思うのだ。まあもちろん、演奏にもよるんだけど。

さて第10番。どうにも大好きな「第9番」と比べて聴いてしまって、いかんかったなあ。もっとホルンが、とか思ってしまったし、このテーマはどうなんだ、なんて考えたりして。
一緒に聴いていた(見ていた)ぶたこは、「まるで天国の音楽」と言っていた。あの世から、時々地上を見たりしているような、そんな音楽なのかなと。そう思うと、これを震災の鎮魂として演奏することにした指揮者のアバドの気持ちがわかる、と。
なるほど。マーラーファンよりもよく理解している。
僕はずっと、曲としての良し悪しを計りながら聴いていたのだった。そんな気持ちで聴いていて楽しいわけもないし、曲に入り込めるわけもない。確かにどこか天国的であった。
だが、第9番だって天国的なのだよ。よく「死の世界」と例えられるけれど、僕には天国だと思える。
第10番はかぎりなくその「天国」に近い。第9番に近い。第1楽章にアダージョを置いたところからも、この先も同じような展開を目論んでいたのかもなあと、思ってしまう。(後世の人が、ピアノスケッチから書き起こしたオーケストラ版もある。どんな音なんだろう)

それにしても、ルツェルンのオーケストラはなんてうまいんだろう。そしてなんて積極的なんだろう。アバドの指揮もとても素敵だ。無駄がない。力みもない。ともすればそこに指揮者がいることすら意識しなくなってしまうくらいに、音楽そのものになっている気がする(ほめすぎ?)。
今日は本編の音楽会のところまで聞けなかった(モーツァルトのハフナーまで。これもとてもいい)。ブルックナーだと。楽しみにとっておこう。

びぎにんぐす

自粛ムードというのは、どれくらい漂っているものなのだろうか。朝起きて会社に行き、ほとんど外に出ずに、仕事が終わればまっすぐ家に帰る生活をしていると、世の中の動きが分かりにくくなるものかもしれない。世間と言っても、話をする相手は限られている。あ、昨日は除湿機を買いに日本橋まで出かけたな。しかしなにか特別なものは感じなかった。
自粛する人たちを揶揄して書いているつもりはない。確かにぼくはどちらかというと、早く日常に戻って欲しいと思っているのだが、時間がかかることも分かっているつもりだし、華やかに騒ぐことをためらう気持ちもわかる。どちらもありうる。どちらが正しい訳でもない。というと、言い訳じみてくるけれど。

先日、スティーブ・ハウのソロアルバム「ビギニングス」を聞いた。
少し前、ある席でイエスの話題が出て、そういえばハウのビギニングすはいいアルバムですよ、今度持って行きますよと言われていた、その約束が果たされたわけ。

アルバムの内容は、いろんなジャンルがゴチャマゼになっていて、もちろんギタリストのソロアルバムだからギターがメインなんだけど、バリバリ弾きまくるという感じでもない。意外にもアコースティックなナンバーが多い。タイトル曲は7分半に及ぶ大作だが、はっきりとクラシック(バロック?)を意識した曲。イエスの同僚リック・ウェイクマンを意識したか。
というより、なんだか自分のギターテクニックにあまり関心がないように見えるのだなあ。不思議なギタリストだ。イエスというバンドの中にいると、随所に技巧的なフレーズを披露するのに(特にライブの「イエスソングズ」では、弾きまくりという印象だ)、いざソロとなるとこうなるのか。

だが、これがスティーブ・ハウというギタリストの特性なのだろう。
考えてみれば、イエスというバンドがそうなのだ。ひとりひとりの技巧は超絶なものがあるのだが、誰かがとんがって突出することがない。だから技巧派ぞろいながら、バンドとしてまとまっていたんだろう。そのまとまりから飛び出てしまう人間はバンドを離れる。メンバーチェンジが激しかったバンドだが、まとまりの中に収まりきらないか、あるいは満足できなくなったら脱退するしかないだろうなあ。

で、ハウもそういう「バンドメンバー」のひとりだったわけだ。きっと。あれだけ目立った技巧を持ってたら、普通のギタリストだったら「えいっ、オレについてこいっ」となりそうなものだけれど(多くのロックバンドはそういう形だ)、彼は「はい、じゃあ僕はこんなところで頑張ってみます」という、一種の職人技のようにギターを弾く。

つまりは、そういうメンバー、そういう曲の中でこそ、彼のギターは映える。
知り合いから借りた録音には、ついで、という形でイエスの曲(ギターが前面にフューチャーされている)が入っていた。そこではハウはとても自由そうに(実際はどうか知りませんけど)弾きまくっている。それとの対比で余計にそんなことを考えたのだった。

能舞台でバロック

とても楽しい演奏会に行ってきただよ。大阪の真ん中、谷町にある「山本能楽堂」という能舞台での、バロックヴァイオリンとチェンバロを中心とした演奏会。バロックヴァイオリンがサイモン・スタンデイジ、中山裕一、チェンバロが中野振一郎、バロックチェロが曽田健、ソプラノが高見さなえ(敬称略)というメンバー。
能楽堂という、およそ西洋音楽とは関わりのない舞台で、バロックをやるとどうなるのかという興味もあった。

だいたい能舞台に、どういうふうに楽器類をしつらえるのかなあと思っていたが、チェンバロやチェロが座る椅子のところには赤い毛氈を敷いていた。そして演奏者はすべて白足袋。上は燕尾服なのが面白かったね。ソプラノもピンクのドレスに下は白足袋。まあロングドレスだからほとんど見えないんだけれど、入退場の時の橋(というのかなあ)を渡るときには、ドレスの下から白足袋というのが、面白かった。

で、肝心の演奏なんだけど。これがとても素晴らしかった。
会場の響きはどうなんだろうとか、ちょっと心配もしていたんだけれど、演奏者のそれぞれの音がとてもいい。多分いい音を創り出してはるんだろうなあ。バロック調の(そういうのがあるのか)まっすぐな音色がまっすぐ伝わってきて、妙な飾りがなくて、スッキリとしていてとても美しい。それでいてチェロとバイオリン、あるいはバイオリン同士のやりとりなどは、まさにまっすぐな音楽のやりとりで、バロックというよりもロックかジャズの即興のやりとりのようにさえ思えるスリリングさ。思わず身を乗り出して聞いてしまったよ。わたしらが座ったのは2階の一番前の座布団席で、それでも舞台とは程よい近さがあってとても聞きやすかった。ソプラノの高見さんも(第1部の2曲目だけだったけど)、この中にあってすんなり収まる歌を聞かせてくれた。いわゆるオペラ歌いではない歌い方が、今日のアンサンブルにスッキリ溶け込んでいた。響きがつかみにくい会場だったろうに、高音から低音までしっかり聞こえさせていた。前半は歌も含めてヘンデル一色。

休憩を挟んでの後半は、フォルクレのチェンバロ曲、ルクレールのバイオリンソナタ、ヘンデルのトリオソナタというプログラム。
チェンバロの中野さんは、おしゃべりも達者で、会場を和ませつつ曲目を紹介してくださった。演奏になると一気に音楽の世界へ。チェンバロという楽器、表情の乏しい楽器のはずなのに(音量が大きくなく、また音量の幅も狭い)、曲がうねりをあげて展開する。ルクレールのソナタは、超絶技巧。手元をじっくり見ても、どうやって演奏しているのか(近眼のせいもあるけれど)はっきりとはつかめなかった。ひえーっと思っているうちに曲は終わったのだった。すごい。
最後のヘンデルのトリオソナタ。再び2台のバイオリン、チェロの丁々発止のやり取り。リラックスとスリリングが同居する演奏。いやあ、ええもんを聴かせてもらいました。

これは「うえまちコンサート」という演奏会のシリーズのひとつ。常連さんもたくさんいるようで、会場は終始和やかな雰囲気。満員となったお客さんは惜しみない拍手を演奏者に贈っていた。
能舞台という会場。実はバロックにはぴったりだったのかも。

アカペラ・ワークショップ

「音楽」のカテゴリーも久しぶりかも。今日はぶたこがNYで知り合ったというかお世話になったというか友達になったというか(そういうことが、世界中のどこでも起こせるぶたこである)、アカペラコーラスのアレンジャーでシンガーでもある先生が講師に招かれての、ワークショップに行って来たのだ。
こういうコーラスはほとんど経験がない。「はもネプ」とかもチラッと見たことはあるけど。それっぽい歌はそこらじゅうで聴く機会もあるけど。自分でやったことはない。それっぽい曲を合唱で歌ったことはあるけど。でも「アカペラ」となったら、ほとんど一人一パート。つまりはソロではないか(ソリ、ともいう)。
そして、いわゆる「おしゃれな」ハーモニーがしょっちゅう出てくる。三和音(ドミソとかドファラとか)の曲に慣れ親しんでいる身には、なかなかハードルが高かった(見た目ももちろん、おしゃれにはほど遠い)。若い人たちがそんな難しい曲(ぼくの耳には)を歌っているのだなあ。

3部構成で、第1部がモデルグループのレッスン、第2部がアレンジ教室、第3部が「みんなで歌ってみよう」。各2時間、合計6時間をひとりで仕切った講師の先生には頭が下がる。第3部のおしまいには、「じゃあ一人ずつのグループで歌ってみよう」と言われて、ぶたこと同じグループで歌った。小アンサンブルは気持ちいいけど、おしゃれなハーモニーはほとんど初めての経験だったので、緊張した。でも楽しかったね。若い人たちがたくさん(先生のファンが多いらしい)来ていて、アカペラ熱っていうのがあるんだなあって思った。

久々の演奏会

今日は何でか朝から頭がぼーっとして、耳がしんどいかったのです。昨日、久しぶりに行った合唱団の演奏会のせいかなあ。
いずみホールという、とてもよい響きのホールにも関わらず、始めからオシマイまで全力歌唱(こんな言葉がすっと思い浮かぶくらい)。とにかく一生懸命に歌う歌う歌う。一生懸命というのはいいんだけど、歌うっていうより声を出すって感じでね。抑えたところがひとつもなくて、曲の抑揚もほとんど感じられないのです。
演奏した曲は「心の四季」(これだけ女声合唱版)、「水のいのち」「ふるさとの四季(唱歌メドレー)」「筑後川」という、これ以上ないというような定番の合唱曲。どの曲も、今まで何回も歌ったり指揮したりしているので、余計に「ああ、あそこはこうなるはずなのに」というもどかしさもあって、耳の奥にいろんなことがしこりとして残ったのかも。

多分、団員一人一人は立派な声の持ち主なんでしょう。全体で40~50人ぐらいやったかな。中ではテナーが人数も少なくてちょっと非力。ほかのパートに比べると声量も落ちます。でもねえ、ひとつのパートが声量が出なかったら、特にハモるところなんかはそのパートを聞いて合わせますでしょう。ところがこの合唱団は、ほかのパートのことなんかそっちのけで、自分たちの声をいかに響かすかということしか考えてないみたいなんですよね。
特に前半の2曲は、繊細な表現が信条のはずなのに、そんな色合いはほとんどなし。ピアノ、ピアニッシモの表現は皆無。となるともちろん、効果的なクレッシェンドもできず。じゃあ何がのこるかというと、フォルテで響く声だけ、なんですね。
で、人数が一番多かった(名簿を見ると)ソプラノはとても立派かというと、なぜか上のファ、ソぐらいで一気に声量が落ちる。なんで? こんなに人数もいるのに。どうやらプロっぽい人も混ざっているらしいのに。高い声が抜けないみたい。力のこもった声しか出せないようなんですね。

演奏されたどの曲も大好きな曲だっただけに、その乱暴な歌い方に悲しくなってしまいました。この人たちはいったい、なんのためにこの曲を歌っているのかと思うくらい。「音楽」を聴きたいのに、「声」だけを聴かせられているような思い。

これは指揮者の責任なのかなあ。そういえば一曲終わるごとに、腕をだらっと振り下ろすんですね。それが曲の終わりの合図らしいです。なんか「はい、おしまい!」とフタをされているようで、変な感じやったなあ。
一曲の中で、まあだいたい出だしがメゾフォルテぐらいで、途中でフォルテになるところがあったりするけれど、だいたいがフォルテ-メゾフォルテ。つまりは表現が平板なんですね。盛り上がりも何もない。大きなクレッシェンドがここにあるはずやのになあ、というところも、出だしが大きいもんやからそれ以上に大きくならない。さらにソプラノは高音がスキッと抜けきらないので、一番盛り上がるところが頂点にならないまま曲が進んでいくのですね。なんか、別の曲を聴いたみたいな感覚にさえなってしまいました。それに比べるとピアニストは表情が過剰なほど豊かで、そのギャップがまたたまらなく変でした。

全部のプログラムが終わって、やれやれと思ったら、そこから「永年団員に花束をお贈りします」というセレモニーの始まり。延々と誰それさんに誰それさんにと一人ずつに花束贈呈が10人以上も続いたか。アンコールには2曲、「はるかな友に」と「ふるさと」を、「どうぞ会場の皆さんもご一緒に」と言ったけれど、「ふるさと」は演奏した曲の中にあって歌詞もパンフレットに載っていたけれど、「はるかな友に」は歌詞も無し。それでご一緒にもないもんやろう。
それで思ったんですけど、どうもこの合唱団は、自分たちが一生懸命になることしか考えてないみたいなんですね。ほかのパートの音を聞いていない(たぶん)こともそうだし、自分たちの仲間内に花束を渡すのもそうだし。そうなるとアンコールで「みんなで歌いましょう」というのも、お客さんと一緒に楽しもうというより、「そうしたらお客さんもきっと楽しいでしょう」という、ちょっと構えたところからの発想にしか見えなくて。それで舞台の上を見ると合唱団員はみんなまじめな顔で歌っていて、何も楽しさが見いだせないのも悲しいことでした。

つまりは、これは「演奏会」ではなく「練習成果発表会」なのですね。それに付き合わされるのは(それも高いチケットを買って)なんだかなあと思ってしまったのでした。ああ、めんどくさい。

シューベルトくん、頑張ったね(^◎^)

ぶたこな日々(^oo^)帰国前の火曜から木曜

ニューヨーク滞在の最終日の15日(ほんまは次の日の早朝まで居てたけど、午前3時に出発したので実質動けたのはこの日まで)、ニューヨークフィルのオープンリハに行ってきたのです。指揮はムーティ、ピアノが内田光子で、プログラムはラヴェルのピアノ協奏曲とシューベルトのハ長調交響曲「グレート」。

前にも書いたかなあ。わたくし、この交響曲が大好きなんです。最初のホルンの長いソロを聴くだけでぐっと来るんですな。ほんま、シューベルトはメロディ作りの天才やと思わせます。
その一方、構成力という点では今ひとつのような気がするんですね。交響曲みたいな、いくつかのテーマを発展させていってひとつの構築物を作る、というのが苦手なのかなあ。あれだけたくさんの歌曲(しかも凡作がほとんどない)を作れたのに。

なので、これだけ大がかりになってくると、構成が曲想についてこれないようなところが出てくるんですな。そこらへんをゆるみなく聞かせるというのが指揮者とオケの力量でしょうなあ。なんて思うのは、演奏者によって出来が全く違って聞こえるからでして。バーンスタインはよくなかったなあ。メロディだけが軽く浮いちゃってて。なんてことは、前も書いたかも。

オープンリハだから、指揮者が時々止めながらの演奏(でもほとんど通しだった。うれしかったな)なんだけど、とても素晴らしかった。最初のホルンの独奏が、びっくりするくらいきれいで、よくメロディを歌ってるんだけど不自然じゃない。音色もものすごく暖かくてびっくりした。びっくりしてばっかりやな。ソロに続く弦の合奏もとってもきれいで、まあ当たり前なんだけど「ニューヨーク・フィルって、うまいなあ」と思ったのでした。この部分だけでわたくしのハートはシューベルトにつかまれてしまいましたです、ハイ。

ムーティなんですけど、失礼ながら今までのわたくしのこの指揮者に対する印象は(テレビとかで見る印象だけだったけど)、エエかっこしいのイタリア男で、格好悪いことはしない、はっきり言って「外面を飾るやつ」だと思ってたんですが。指揮ぶりもスタイリッシュというか、背筋をぴんの伸ばして顎を心持ち突き上げて、まるでオケを見下ろすような格好があるし、指揮棒を大振りにしないのは好感が持てるけれど(必死なやつは嫌いなのです。クライバー以外は)、どこかで音楽そのものではなく「指揮姿を見られている」のを意識しているのでは、と思わせるところがありましてね。

でも今回はリハ。となると自分の意志を、自分の音楽をオケに伝えるのに、かっこうよさも何もかなぐり捨ててというか、その必死さがとても面白かった。必死だからといって、力みがあるわけではなく、またオケにガミガミと指示を出すというのでもなく、時には指揮台の後ろのバーに体をもたれかけさせながら軽く指揮棒を振ってたりするし。何より、何をしていても力が抜けているのですなあ。ppを要求するときは体を小さく折り曲げて、ひざまずきそうになりながら振ってるし。あげくにはオケにたっぷりタメをつくってffになるところでは、なんとジャンプ!(^◎^;)。こんなん、本番では見られへん姿やろなあと思ったら、オープンリハってなんておいしい企画なんだろうと改めて思ったであるよ。

ほとんどの部分はオケに自由に演奏させながら、ここぞと言うところでは細かく指示を出す。それが音楽の流れに実にぴったりはまっている。気持ちよく聞いてるところで音楽をストップさせてやり直しさせられると、「えっ、なんで?」と一瞬思ってしまうのだが、その次に出てきた音楽はさらに素晴らしいものになるので、ひえええと思ってしまうのであります。これもオープンリハの恩恵。そして指揮者がこの曲のどの部分に神経を使っているのか、どの部分を「キモ」と思っているのかが手に取るように分かって、これは勉強になるなあ。勉強のために聞いてる訳じゃないけど。

ムーティがよく止めていたのは、さっきも書いたppの部分。そしてそこから始まるクレッシェンド。クレッシェンドも一様じゃなく、何度も出てくると1度目よりも2度目、2度目よりも3度目、そして大爆発!という作りは、聞いていて爽快そのもの。個々のメロディのきれいさに惑わされず、曲全体の構成を見切った! という感じでした。気持ちよかった。

聞き終わって、シューベルトって頑張って作ったんやろなあと思った。この曲、こんな長い曲。別に歌曲のシューベルトで終わっても誰も文句は言わなかっただろうに。でもシューベルトってベートーヴェンを師と仰いでいたんですよね、確か。ベートーヴェンになりたかったのかなあ。あの交響曲群のような曲を作りたかったんじゃないかなあ。頑張って、リピート記号もいっぱいつけて(楽譜も知らんと書いてます)、持てるメロディ要素をいっぱい盛り込んで。でも人間がそんなに複雑じゃなかったから、曲はシンプルなものになってしまって、構成も生きなかった。あ、ここまで書くと憶測と勝手な感想ですけど。
でも、ずっと聞いてたら、なんだか「短編作家が頑張って長編小説を書き上げました」って感じなんですよね。で、指揮者もオケも「頑張ったんだから、何とかしてあげよう」としているというか。普通に読んだだけじゃ途中でみんな寝てしまうから(^◎^;)、読み手(オケ)は声の抑揚をつけたり緩急をつけたりして、いっぱい工夫して。でもその工夫があからさまにならないように気をつけて、とか。

それにしても、ムーティは素晴らしかった。イタリア男をばかにしてはいかんなと思って、ふと、僕の大好きなレコードのトスカニーニ:フィラデルフィア管の演奏も、イタリア人指揮者+アメリカオケの組み合わせやな、ということを思い出した。そういえばppからのクレッシェンドの仕方はイタリア的かなあ、なんてことを思った。そんなステレオタイプに考えてはいかんのでしょうが。


えっと、内田光子ソロのラヴェルもとてもよかったです。ジャズのリズムかあ。内田光子のリズム感のよさが光りましたな。で、こちらはノンストップで3楽章とも演奏したので、まるっきり演奏会のようでありました。

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