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【告白】湊かなえ(双葉社)

ぶたこが、「読み始めたら、やめられへんで~」と言っていたが、確かに、途中で読み終わることなく一気に読んでしまったよ。今年、一気に読んだのは「プリンセス・トヨトミ」「ガダラの豚」に続く。さすがミステリー大賞にしてベストセラーになっただけのことはあるよ。

物語は、映画にもなったからよく知られているだろうけど。ある中学の1年の終業式。担任の教師がホームルームで話す「告白」が発端となる。「私の娘は、このクラスの生徒に殺されました」
謎解きと、その後に起こる復讐劇。それが第1章「聖職者」。続く2章以降は語り手が変わっていって、その後の展開を語る。それぞれの視点から見た物語。こういう手法はよくある。その中で時間軸が進んでいくのはちょっと変わっているか。
どこかで話に折り合いがつきそうでつかない。ひとつの話の裏側がみえてきて、これってどうなるんだろうと思ったら、思わぬところに落ちていく。

後半はちょっとつじつまを合わせたような、前半に比べるとやや単純な展開になっていくのが残念といえば残念だけど、こういう展開もありだろうし、なにしろ次々に読ませる筆力はすごい。めでたしめでたしというところに収まらないのはわたくし好み。物足りなさは、前半の素晴らしさ(特に第1章のすばらしさ)の裏返しとも言えるかも。読者は贅沢なのだ。

今年も最後になって、ホンマに面白いものを読ませてもらった。
来年も、面白い本との出会いがありますように。
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【スリーピング・マーダー】アガサ・クリスティー(綾川梓訳・早川書房)

今年も残りあと僅か。というところでミステリー。なんの関係もないけれど。
クリスティーのミス・マープルものの最終話。死後出版された作品(実際は早くに書かれていたらしいけれど)。

イギリス人ジャイルズと結婚して、ニュージーランドからイギリスにやってきた新妻グエンダ。ディリマスで新居を見つけ新生活が始まる。ところが、初めて住むはずのその家で、デジャヴを体験する。それも殺人の現場の。これは現実に起こったことか、あるいは妄想か。彼女は夫ジャイルズ、そして親戚のミス・マープルとともに、真相に迫る。

初めのデジャヴ体験がとても面白いのだが、これは事件の序章で大きな問題とはならずに解決してしまう。もちろん、そこから話が進んでいくんだけど。

クリスティーお得意の、人の話、会話会話会話の連続。読み手としては、それぞれを事実として受け入れてしまうのだが、「もちろん、誰かが嘘をついているのよ」。そして、誰が嘘をついているのか。そこをしっかり見据えるのがミス・マープルである。
最近のミステリーものではない、いわゆる「本格派」の、その中でも「語り派」の面白さを満喫できるのは間違いない。

【四十一番の少年】井上ひさし(文藝春秋)

井上ひさしの、ずいぶん前の小説だ。
カナダ人神父が営む孤児院「ナザレト・ホーム」の、孤児たちの話である。「四十一番の少年」「汚点(しみ)」「あくる朝の蝉」の3編収録。

井上ひさしの小説は、どこか物悲しくて、どこかユーモラスで、どこか残酷である。ユーモアに引きずられて読み進んでいくと、突然どかんとした結末が待っていたりする。
「現実は甘くないぞよ」
と言っているようだ。そう物事はうまくはいかないということを。
だが、人物に対する視線はいつも温かい。それが悪人であっても、温かい。そこに僅かな希望がある。だから面白い。悲しい話でも、なぜかほっとする。

【素粒子】ミシェル・ウェルベック(野崎歓訳・ちくま文庫)

ミシェル・ウェルベックは、「わかりにくい」ということはないけれど、「だからどうした」といってしまいたくなるような作品を書くようだ。フランス文学に多いなあ、と言ってしまうと、ひとまとめにして結論づけてしまうようで嫌なんだけど。途中で、これ、読み続けていて、果たして面白いんだろうかと疑問に思うような内容。

二人の異父兄弟が主人公。兄のブリュノは、享楽的。というより、ほとんど病的に性衝動に縛られている。至るところでしょっちゅう勃起、自慰行為を繰り返し(電車内で、あるいは教鞭をとる教室で)、フリー・セックスのキャンプ(「変革の場」という命名が時代を感じる)のようなところに入り浸る。弟は逆に他社との関わりには無関心。専門の分子物理学以外のことにはほとんど興味がない。その専門分野さえ、重要な論文を発表すると関心を失ったようになってしまう。

二人の接点は、物語中にはほとんどなく、会ったところで兄弟は別々の方向を向いたまま。お互いが解り合おうとしているようには思えない。

そして(以下、ネタバレ)、兄は「変革の場」で知り合った女性とセックスを重ねた挙句に、その女性を失ってしまい(もともと体が弱かったのだ)、自ら精神病院へ。弟は論文を発表すると、研究室の職を辞し、隠遁生活を送った後に自死。なんとも救いようのない話だ。

この物語には、作者ウェルベックの半生が色濃く反映されているらしい(彼自身、精神を病んだことがある)。
そして、物語のキーになるとするなら、プロローグに書かれた「これは一人の男の物語である」という言葉だろう。実際には兄弟の話なのに。ということは、この二極化された人物像は、実は一人の人間の、あちら側とこちら側の話、あるいは一人の人間の一つの極ともう一つの極の話なのか。それにしても、真ん中がすっぽりと抜け落ちている。この「抜け落ち加減」がいいのかも。
そして、中盤で延々と続く兄ブリュノの性的生活。そこにうんざりしてしまうとこの小説は最後までたどり着けない。たどり着いたからどうだ、ということもないけれど。

ちなみに、作者ミシェル・ウェルベックは、今年フランス文学の最高賞とされるゴンクール賞を受賞している。ううむ。フランス人の感性はわかりにくい。

【阪急電車】有川浩(幻冬舎)

12月28日付朝日新聞朝刊の「文芸時評」(斎藤美奈子)の題名は、「「わからない」の効用」「わかると思うほうが間違い」というもの。
僕は今まで沢山の本を読んできているけれど、すべてを覚えているわけではないし(あたりまえか)、中にはさっぱりわけがわからないまま読み終えた本もある。カフカとかが代表だけれど、それ以外にもいっぱい。そういう時、自分の読書力の無さに呆れてしまうのだが、斎藤氏によれば「分からなさを否定したら純文学は商売あがったりなのだ」「「わからない」の効用はわからなさそのものにある。私の頭はこんなに悪かったのかと思うと愕然とする。しかし文学が、いや世界が簡単にわかると思うほうが間違いなのだ」
こういう文章を読むと、書き手が書評家だけにとても勇気がわく。これから読む本がどんなに訳がわからなくても安心して読める。

さて。有川浩は「分かりやすい作家」の典型だろう。前に「図書館戦争」を読もうと思ったが、最後まで読めなかった。バカバカしくなってきたからだった。時間の無駄、と思ってしまったからだった。「フリーター、家を買う」がTVドラマ化されて話題になったが、既成の道徳観の押し付けと在り来たりのセリフの応酬、既視感たっぷりの話の流れにうんざりしてしまった。二宮和也と浅野温子の演技につられてずっと見ていたけれど。すべてが丸くおさまってよかったよかったなんて、いまどきあるわけないやないかとツッコミを入れたくなってしまう(朝日新聞が今年のドラマを振り返って、良くできたドラマの一つにこの番組を挙げていたのには驚いた。馬鹿じゃなかろうか)。ドラマの内容は、そのまま有川浩の作品の有り様に繋がっているようだ。
ということを、「阪急電車」を読んで感じた。

阪急電車今津線という、「やや高級そうなローカル線」を舞台に選んだところはいい。そこで起こる、多くは男と女の物語。図書館でいつも気になる男女。亡くなった夫の事を思って、小さな犬を飼うおばあさん(とその孫)。彼氏のDVに悩む女性。会社の後輩に婚約者を寝取られた女。色んな人達の人間模様が連作で語られる。もちろん有川浩だから、落ち着くところに全部落ち着いていくのである。
そこがなあ。
これだけいろんな人生の縮図を集めながら、ひとつも破綻がない。どこかでひねって欲しいんだけど。読み終わって、爽やかさが残るという人もいるだろうけれど、波風がなさすぎてかえって「ありえな~い」という感想しか残らないのである。

全日本フィギュア

うっかりのんびりしている間に、メダリスト・オン・アイスも終わってしまったよ。
浅田真央のエキシビションはよかったなあ。いつまでもいつまでもいつまでもいつまでも見続けていたくなるようなスケート。こんなスケートをしてくれる人は今、他にはいないよなあ。うっとりとした時間が、過ぎていくのが惜しいくらいだった。
各選手、アンコールではフリーやSPのステップを滑るというのが定番のようだが、本番よりも力が抜けている+体力も余っている状態なのか、本選よりももっと素晴らしい滑りをみせてくれる。そうか、しっかり決まればこうなるのかというのが分かる。音楽ともピタリと合って気持ちがいい。

さて。本選。
男子はトップ3が順当な順位。羽生くん、惜しかったね。まあこれからの人だから。
結局ミスなく終わったのは誰だったか。みんなこけてたか、回転不足だったかのような印象が強いなあ。トップレベルの選手はグランプリシリーズの疲れもある、なんていうけれど、これくらいのことで崩れるようではとも思う。一番緊張する試合だから? そんなのは女子でも一緒でしょう。
その中でも、4回転フリップに挑戦した高橋大輔には拍手を贈りたいな。調子が悪くてもベストをつくす。失敗しようがどうしようが、自分のできる最高の演技を見せる、という気迫がまさっていた。久々に気合の入ったスケートというのを見せてもらった感じ。ショートで出遅れたから、フリーでは緊張してミスしたり、あるいは慎重になって大技を回避、ということも考えられるのに。なんかケガから復帰してからの高橋選手は、人間的にもスポーツマン的にも、大きなものを感じてしまいます。
織田信成は、相変わらず。今年わたくしの中での評価は変わらずじまいでした。ジャンプが出来なければただの人という印象なんですよねえ。もちろんスピンも綺麗だしステップもいろいろ考えてるんだろうけれど。なぜか「何もしていない時間」が、あるように見える。ただの「ジャンプの準備」だったり、「次のステップの準備」だったりに見える時間。ぶたこは「首が固いように見える」と言っていた。確かに高橋大輔に比べると、首が動いていないようには思う。何か、ちょっとしたことだけど、違うのだろうなあ。
小塚崇彦も「首が動かない」タイプかも。スケートはよく滑るし、ジャンプも綺麗なんだけど。それにしても、フリーで2回転倒しても高得点なのだね。まあ転倒を取り返すだけのその他の技術があるってことなんだろうけど。本人も首を捻ってたけどね。

ついでに女子も書いちゃおう。横着させてもらいます。
男子に比べると見応え充分、と言うと男子に失礼だろうけど。いやあレベルが高かったなあ。
特にジュニアの選手の素晴らしいこと。難しいジャンプはまだまだという感じだけれど、すでに演技力、アピール力は十分であるよ。海外のちょっと下のレベルのシニアにも対抗出来る(上回っている?)。中でお気に入りは大庭雅かな。ステップの続きのようにジャンプが飛べる。2アクセル-3ループのコンビが飛べる。これから出てきそうやね。ジュニアチャンピオンの庄司理紗は、すでに大人の演技。これだけの層の厚さを見ると、世界選手権の出場枠は3枠といわず、6人ぐらいは出してあげたくなるね。

さて。その世界選手権には安藤、浅田、村上の3選手が出場。鈴木明子は惜しくも選にもれた。今年の出来では仕方がないかな。もともとが大きな技がないしなあ。でもあのステップが見られないのは惜しいし、見てる人を引き込んでいく演技力は、努力してもなかなか身につかないものでもあるし(多分)、その上にジャンプの安定度が上向けばまだまだ、という気持ちはファンとしても持ってるよ。
村上のフリーが始まったとき、ぶたこが「今までで一番気持ちが入っている」と言った。最初の3-3が今までになく不安定だったので、わたくしはちょっと緊張しているだけではないのかと思ったけれど、演技が進むに連れてぶたこの見立ての正しさを認めざるを得なくなったよ。3-3も、少々軸がずれても決めてしまう根性があったね。今季一度も失敗していないという自信も力になったか。ノーミスかどうかという次元を超えた演技であったよ。
浅田真央は、ほんまにここ一番で力を発揮するなあ。そして「3アクセルを跳びたい」とコーチに進言したという話を聞いて、アスリートなんだなあと思った。昨日のメダリスト・オン・アイスでもアクセルジャンプを1回失敗して、そのあと跳び直したところなんかも、根性というか、意気込みというか、そんなものを感じたよ。そして会場中、あるいは全国のフィギュアファンが応援してしまう演技。滑っている間に浮かべる笑顔。ああ、よかったねえ、とうとうここまで来たねえ、うんうん、とテレビの前で思わず・・・・。
安藤美姫は、もはや職人の域。グランプリファイナルでは本調子でなかったSPも、今季負けなしのフリーも素晴らしい。ガッツポーズもいいけれど、そこまでやらんでもとも思う。気になるのは3-3を回避したこと。堅実に高得点を狙う、あくまでも順位にこだわるモロゾフ流には、少々飽きてきたというのが実感。そのコーチの方針と選手の思いとが一緒になってる間はいいのだけれど。そして見ているファンの思いとも離れるのではというおそれもある。そうなるとフィギュアを見る楽しみが減ってしまうかも。誰もが納得できる採点方法とかをとろうとしているしなあ。

というわけで。今年のフィギュアも終わり。世界選手権がほんまに楽しみである。
あ、最後に。
フジテレビの実況アナは、何とかならんのか。あんなやつは演歌の花道の司会でもしとれ。

M-1グランプリ

M-1グランプリが10回目の今年で終了するのは残念だ。年末の恒例行事化してたのになあ。普段はお笑い番組はあまりみないわが家だが、これだけは特別。いつのまにか「ちゃんとチェックしておかないと」という気分になっていた。

さて、10回目にして最後のM-1。グランプリには笑い飯。9年連続の決勝進出ながら過去は無冠。去年は決勝1回戦で100点をとりながら、ファイナルではしょうもないシモネタに走って賞を逃した。(あれも作戦というか、後々話題になりたかったのだろうか)
今年は昨年の「鳥人」につづく「サンタウルス」。なんや二匹目のどじょうか、と最初は思ったけど、存分に笑わせてもらいました。ファイナルの「えべっさん」は、関西やったらもっと受けてたでしょう。

驚きのファイナル2位はスリムクラブ。こういうノーマークのコンビがいきなり頂点に迫るというのも、M-1ならでは。たたみかけるようなネタの応酬が主流のお笑い界で、真逆の「間」。すっかり引きこまれてしまった。松本人志が「時間が惜しくないのかなあと思った」のには、同感。黙ったまま見つめ合う時間が過ぎていくに従って、なぜか体の中から笑いが沸き起こってきた。えええ~~っ! 笑い飯がいなかったら、間違いなくグランプリだったろう。あるいは、来年もあったらねえ。惜しかったなあ。

パンクブーブーはねえ。1回戦とファイナルで同じようなネタをやってしまったのがミス。この1回戦のネタも、昼間の敗者復活中継でちょっと流れていたので、本選ではあんまり面白くなかった。玄人ウケするんだろうけど、ネタのパターンが同じだと飽きてくるのも事実。

1回戦敗退組では、ジャルジャルが意外に面白かった。でも「ファイナルでも見たい」と思わせないと難しいだろうなあ。ネタはひねってあるけれど、ちょっと自分たちの笑いに浸りすぎ。策士、策に溺れるのたとえどおり。
ピースは「キング・オブ・コント」でよかったから期待してた。「期待が大きすぎた」という審査員がいたけれど、このあたりが難しいところかな。もう1本は見たかったな。パンクブーブーじゃなくてね。

ナイツとかハライチとか、敗者復活でちょっとだけ見たけど東京ダイナマイトとかポイズンガールバンドとか、うまいのかもしれないけれど、どうにも笑えない。こういう人たちが上位に食い込んでくるのを見ると、今年で一旦区切ろうかという気持ちは分かるような気がする。

【乙女の密告】赤染晶子(新潮社)

小説の優劣は、その長さで決まるものではない。あっという間に読めたから、つまらない、ということにはならない。そうなったら、短編小説の作家はやってられないだろう。本によっては「もっと短くてもいいんじゃないの」と思うものも多い。余計な装飾はいらないほうがいい場合もある。もちろん装飾だらけで、それが魅力となる小説もあるんだろうけど。

「乙女の密告」は、ページ数120。こんなに短くて大丈夫なの? と思ってしまう。しかし内容は詰まっている。

京都の外国語大学が舞台。ドイツ語スピーチのゼミの先生、バッハマン教授は、「アンネの日記」(ヘト アハテルハイス)を授業のテキストに使っている。ゼミの学生はすべて女子。教授は彼女らを「乙女」と呼び、厳しいスピーチ練習を課す。学生のみか子は、暗唱朗読でいつも同じところで詰まってしまう。「乙女」たちのあこがれは、4年生の麗子様。いつも完璧なスピーチをこなす。
しかし、ある疑惑が持ち上がって、乙女たちの間にさざめきが起こる。

「アンネの日記」の本歌取りのような話。僕は読んだことがないのだけれど、作者の思い入れの深さが、そのまま登場人物の思い入れの深さと重なっているようだ。
女の園の諍い。その中に黒一点のバッハマン教授。いつも人形を手放さない彼が(ちと気持ち悪い)乙女たちに伝えたいこととは。

女子大生の不思議な集まりと、アンネの日記の世界の不思議な融合。その上舞台が京都なので、学生たちの会話はほとんどが京都弁なのだ。あこがれの麗子様は、みか子との別れ際に、「ほな」と言って去っていく。ついつい笑ってしまう場面も多かったよ。

赤染晶子は、本編で芥川賞を受賞。確かに面白い。

【中陰の花】玄侑宗久(文藝春秋)

玄侑宗久の芥川賞受賞作。

「おがみや」と呼ばれるウメさんが亡くなる。その葬式を務めた禅宗の僧侶と、ウメさんにつながる人たち、そして僧侶の妻が綾なす物語。

読み始めは、ウメさんが中心となって話が進んでいくのだけれど、途中から僧侶とその妻との物語に重心が移っていく。

人が「成仏する」とは、どういうことなのか。僧侶である主人公にもはっきりした答えは見いだせない。だが、誰しもが、自分は成仏したいと願うし、他人にも成仏して欲しいと願う。それが肉親ならなおさらだろう。
そして、そのために何をするか。何かすることで、報われるのか。
はっきりとした答えが出ないまま、物語がすっと終わる。いいなあ。

短編の「朝顔の音」も収録されている。こちらはもうちょっと現世的。ドラマがありすぎるかな。ちょっと怖いし。

【小さなトロールと大きな洪水】トーベ・ヤンソン(冨原眞弓訳・講談社)

ムーミン童話の最終刊。第9冊目。しかし、書かれたのは、これが一番最初だった。

ムーミントロールとムーミンママが、居なくなったムーミンパパを探して歩くのが物語の中心。とても怖がりな小さな生き物スニフが出てきたり、チューリップの妖精チューリッパが可愛かったり(ドキッとする挿絵まである)、船の上の冒険があったりと、短い話の中に童話的要素がたっぷり。

しかし、他のムーミン童話同様、どこかに覚めた視線があり、すべてが説明がつく、ということもない。それでいて、どこか懐かしい話。

ムーミンたちが自分たちを「小さな生き物」と呼ぶように、初めはムーミンは葉の裏に隠れるくらいの小さな妖精として描かれていたのだね。チューリップと同じぐらいの大きさだと。挿絵のムーミンの絵も、よく知られているものとはずいぶん印象が違う。ヘムレンさんに近いかな。

【いつか、どこかで】アニータ・シェリーヴ(高見浩訳・新潮社)

新聞に載っていた、詩人の写真。それは31年前、キャンプで知り合った少女だった。1週間だけ恋人同士だった14歳のふたり。手紙のやりとりから始まって、ついに再会。そして燃え上がる恋の炎。しかし、二人にはそれぞれに家族(夫、妻、子供)があるのだった。

で、どうなるか。
ハッピー・エンド? アンハッピー・エンド?
ま、読めば分かるけど。

正直、中年同士の恋は、辛い。
少年時代の淡い恋が、そのまま運命の出逢いになっていく、というのは、題材としては面白いけどなあ。でも、その運命の必然性に、今一歩、というところか。なにもこんな長編にしなくても、と思ってしまう。エッセンスだけで十分成り立ちそうなのになあ。

同じ作家の「パイロットの妻」は、どんな話だったっけ。サスペンスっぽかったような記憶が。これはサスペンス色は殆どなし。カバーにある各紙(アメリカの)の推薦文が、虚しく思える。あ、「キャンプ」というのがミソなのか。そういう習慣がある国、経験がある人だと、ぐっとくるものがあるのかも。ノスタルジーがかきたてられて。

【本日は、お日柄もよく】原田マハ(徳間書店)

原田マハは、いままで僕の読書対象の中には入っていなかった。たまたま手にとった「小説新潮」に連載を書いていて、それが大原美術館を舞台にしたキュレーターの話で、連載だから書き出しだけしか読んでいないのだけれど、それでもとても面白かったので、何か出ていたら読もうと思っていたら、たまたま目についたのがこの本だったのだ。

幼なじみの結婚式に出席したこと葉は、そこで感動的なスピーチに出会う。スピーチをしたのは「伝説のスピーチライター」久遠久美だった。彼女に、スピーチライターとしての素質を認められたこと葉は、彼女の下でスピーチライターの修行を積むことになる。折から、国会は解散総選挙。政権交代を目指す民衆党の候補者の応援をすることになるのだが。

話の大筋は、「これといって取り柄がないように見えた女の子が、隠れた才能を発揮して花開く」という、どことなくお決まりのストーリーなのだが。合間に挿入されるスピーチのひとつひとつの素晴らしいこと! 不覚にも、物語に入り込んで、というより、スピーチの内容に入り込んでしまって、感情移入してしまったよ。

さらに、プロのスピーチライターとしての心得とか仕事ぶりとかが、とてもとてもかっこいい。
ああ、すぐにでもドラマになりそうやなあ。
しかし。舞台は国政。しかも「政権交代」で、実際の政治とダブって見えてしまうことが(それを題材にしているからあたりまえなんだけど)リアルであるし、かつ、難しいところかな。僕は感情移入してしまったけどね。

それにしても。原田マハ。何者だ? と思ったらWikiにいろいろ載っていた。原田宗典の妹かあ。って、原田宗典も読んだことないんだけど。

【夢うつつ】あさのあつこ(東京書籍)

あさのあつこは「バッテリー」が有名なので、児童文学者だと思ってたら、いろんなものを書くのだね。
プロローグに続く、6編の短篇集。それぞれに何のつながりもないのだが、それぞれの話の前半部分がエッセイになっているところがミソ。日常の、実際に起った事がらから物語が創りだされていく。

読んでいくと、物語っていうのは、日常の続きにあるものなんじゃないかという気がする。それがファンタジーやホラーのようなものであっても。どこかに現実に繋がっている部分がある。だから読んで面白いものになるのかもなあ。

ちょっとひねった、風変わりな物語が多い。「どっちだ?」が、僕好み。「森くん」も。

あさのあつこの見方を、変えないといけないかな。
それにしても、もうちょっと分量があってもよさそうなもんだけど。すぐ読めてしまった。

【ムーミン谷の十一月】トーベ・ヤンソン(鈴木徹郎訳・講談社)

ムーミン童話全集第8巻。
新しい歌を探しているスナフキン、お話しを作るのが好きなホムサ-トフト、家事が嫌になったフィリフヨンカ、新しいことを始める勇気が出ないヘムレン、自分の名前もすぐに忘れるスクルッタ、ムーミン家の養子になった妹ミイに会いたくなったミムラ。それぞれの思惑を持った6人が、ムーミン一家に会いたくてムーミン谷へ。しかし、ムーミン一家は留守。仕方なく6人はともに生活することになるのだが。

ムーミン童話なのに、ムーミン一家は最後まで(はっきりとは)姿を表さない。なんとなく集まった6人は、それぞれが自分勝手で、どうにも話もちぐはぐで、まとまりようもなさそうなんだけど、スクルッタの「パーティーを」というひと言で、父の日のパーティーを開くことになる。

最後までギクシャクしているようなんだけど、いざ離れ離れになるというときには、別れがたくなっている。特に大きな事件が起きるわけでもないんだけど。話の運びがとてもいい。ちょっと寂しいんだけど。別れていくシーンは、心に残る。

で、これは前作「ムーミンパパ海へいく」を読むと、なぜムーミン一家が留守にしているかが分かるんだけど。そして最後のシーンも。

これでムーミン童話は終わり。と思ったら、もう1冊あるんだね。

オペラを書きたいのだろうなあ

テレビで「オペラ座の怪人」を見た。以前、飛行機に乗ったときに見たのだった。その時も思ったのだよ。
ロイド・ウェバーは、オペラを書きたいんだろうなあ、と。

音楽はロック、あるいはポップスなんだけど、構成とかがすっかりオペラ的。
まあ確かに、魅力的なメロディもあるんだけど。音程が飛ぶのが好きなのだね。サラ・ブライトマンをイメージしてるんだろうか。曲が先かサラが先かは、分からないけど。
ただ、繰り返し出てくるテーマに、だんだん疲れてくる。曲同士のメリハリがどうもねえ。「ジーザス・クライスト・スーパースター」は、色んな曲があって、しかも一本筋が通っていて、よかったなあ。まあ物語も分かりやすいんだけど。

というのを考えながら、半分夢うつつで見ていたのだ。最後はどうなるんだったかなあ、などと思いながらね。

【人間は考えても無駄である】土屋賢二(講談社文庫)

お茶の水女子大学哲学科教授、土屋賢二氏の、おもしろ対談集。
「人間は賢くなったか」ということをテーマに(しているのだろうか、本当に)、4組5人の「知り合い」と対談する。
もちろん、話は脱線続きで、どこまで真剣なんだかよくわからない。でも楽しい。楽しいながらも、少し考えさせられる。
最近、話題になったさる大学教授の授業ではないが、「正義とはなにか」という問題についてまで話は及ぶ。もちろん、白熱した論議にはならないのだが。しかし、こういう肩の力の抜けた人が論じる話は、何故かすんなり心に届くものなのだなあ。

でも、対談集である弱みもある。土屋教授の面白さが全開になっていない感があるのだなあ。やはり本人の著作を読むべきか。土屋ファンには(いるのか)、ちょっと物足りないかも。

【創世の島】バーナード・ベケット(小野田和子訳・早川書房)

舞台は21世紀末。少女アナックスが「アカデミー」の面接試験を受ける。3人の試験官を前にしてアナックスが取り上げたテーマは、この国の歴史上、最も重要な人物と言われるアダム・フォードに関するものだった。アナックスはホログラムを駆使して、4時間に渡る面接に挑む。

この面接試験が、物語の外側にあって、本来のテーマはホログラムによって展開されるアダムの物語。そういう二重構造になっている。アダムの物語では、重大な犯罪を犯したアダムが、処刑される代わりに、人工知能を持ったアンドロイドとの共同生活を強いられる。それは人工知能の可能性を広げるための実験で、アダムは実験材料にされたのだった。

はじめの方は、この世界がどうやって出来上がったのかが、試験官の質問に答える形で語られる。このあたりはちょっと冗長。言葉で簡単に説明してるなあという印象。ホログラムでの物語の中では、アンドロイドとアダムとの会話が中心となる。命とはなにか、意識とはなにか、という命題について、二人の問答が続くさまは、まるで哲学書。機械と人間の差はどこにあるのか、という問いかけから、あらゆることのボーダーはどこにあるのかという話に発展していきそう。

そして、事件は起こる。

そして、面接試験の本当の意味が、最後に明かされる。

途中で、そうなんじゃないかなあ、という気はしていた。そのとおりだったね。ちょっとオーウェルの「1984年」を思い出してしまったよ。と言ったらネタバレになるのかな。でも、隔離された島、完璧な支配層、という構図は、いかにも。
意外といえば意外な展開かも。でも長編にする必要があったのかどうか。ま、そもそも短いんだけど。もっと切り詰めたらなあ、という気もする。

【ムーミンパパ海へいく】トーベ・ヤンソン

ムーミン童話の第7巻になるのかな。
日常の退屈な毎日から逃れるように、離れ小島に向かうムーミン一家(ミイも含む)。

灯台守になろうと奮闘するムーミンパパ(すぐに飽きてしまうのだけれど)。
いつもどおり皮肉屋のミイ。
ホームシック気味のムーミンママ。
美しいうみうまや不気味なモランと交流しようとするムーミントロール。
そして島には、人嫌いそうな謎の漁師も住んでいた。

海、島、それぞれがまるで生き物のように(ということは、まるで意思があるように)、何かを恐れたりいたずらしたりするらしい。そこらへんが、曖昧になっているところが、いい。ムーミントロールとモランが、なんとなく仲良くなるような、そうでもないような展開がいい。

ユーモアと癒しの物語なんだけど、どこかに寂しさや厳しさが宿っている。そして説明のつかないことが多すぎて。そこがムーミン童話の魅力なんだなあ。

【ニホン語日記】井上ひさし(文藝春秋)

井上ひさしのエッセイ。平成元年から平成4年にかけて雑誌に連載されていたもの。当然、時事ネタもたくさん入っているので、今読むと「懐かしい」と思うようなことも。

日本語の面白さ、大切さなどを語りつつも、ユーモアも忘れていない。「ラブホテルの落書き帳」が面白かったな。

著者のぶれない姿勢が心地良い。こういう作家は、あまり表に出てこなくなったなあ。それって・・・。

安野光雅の装丁と挿絵も秀逸。

フィギュアスケート GPファイナル

日曜日に音楽仲間のイベントがあったりして、うかうかしてる間に全て終わってしまいましたね。
女子も男子も、表彰台独占かという期待もあったけど、結果は女子が村上佳菜子が3位、男子は織田が2位、小塚が3位。それでも大健闘ではないでしょうか。

女子。安藤美姫はSPでのつまづきが最期まで響いたようですね。でもあのショートは、僕は好きやなあ。なんだかかつての荒川静香に近づきつつあるようなイメージ。フリーも含めて、大きな演技に様変わりしようとしているのかも。フリーでのガッツポーズは、やりきったという充実感たっぷり。

鈴木明子の点数は、どうして期待どおりに伸びないのだろう。ショートのステップがレベル1になった理由はなんなのだろう。いろいろ疑問に思いつつ、しかしステップには引き込まれるものがあるから、点数に関係なく楽しめるのだ。できたら、表彰台も、と思ってしまうけれど。

村上佳菜子はまだ発展途上なんだろうけれど。そして演技そのものではまだまだ幼さも見えるんだけど(とくにジャンプの用意とかね)。それでもミスなく演技をすれば点数は出る。そしてスピード感。惜しかったなあ。もう一歩で2位やったのに。

コストナー。ルッツもフリップもないフリーの演技は、やっぱりどうかと思うなあ。フリーの曲は、コストナーにぴったりだと思うし、雰囲気は大好きなんだけど。次は3-3も入れて滑ってほしい。

シズニー。ほんまにうっとりするような滑りで、佐藤有香が振りつけたと聞いて納得。それにしても、どうやったらあんなに速いスピンができるんでしょう。リンクの下にモーターでも隠してるんじゃないのか。


男子。
高橋大輔は、ちょっと悔しいでしょうなあ。アクシデントを言い訳にしないところがえらいと思うし、それ以上にフリーで4回転フリップに挑戦したところがすごいと思った。「どうせ調子が悪いなら」と開き直れるところが、かつて「ガラスの心臓」と呼ばれていた選手とは思えないね。ショートもフリーも、最後はふらふらで、それでもプログラムコンポーネンツは高得点なんやから、本調子になったら・・・と期待させる。

小塚崇彦。フランス杯での高得点があったから、だいぶ期待してたんやけど。ちょっと気負いがあったかな。ショートはちょっと空回り気味。フリーは気負いすぎ。ほんま、スポーツは難しい。安藤美姫が、ショートの時に「リラックスし過ぎた」と反省してたけど、心と体のバランスを取るのは大変なんでしょう。でも3位は立派。

織田信成は、個人的にはどうも・・・・なんだけど、どんな体勢になってもジャンプを決められるというのは強みでしょうなあ。ただ、つなぎの演技とかは、どこかジュニアの選手を見ているような気になるところもある。本人は4回転にこだわってるみたいやけど、案外他のところに改善点があるのでは、と思ってしまう。

さて、パトリック・チャンですが。いやあ、確かに素晴らしい滑りですよ。最後までスピードも落ちないし。これで4回転その他のジャンプを決められたら太刀打ち出来ないでしょう。プログラムコンポーネンツは軒並み8点台。9点がついたのなんか、見たことないであるよ。ちょっと出しすぎじゃないのかなあ。ノーミスというわけじゃなかったのだし。大丈夫か、ジャッジ。もちろん1位には依存はないけどね。気になるのは選曲。時間の制限とか演技とのからみとかがあるにしても、無配慮につなげすぎ。スケートの流れを音楽がせき止めている。


全選手をタップリと流してくれた放送には感謝。ただ、6分間練習のときにリンクサイドでぐちゃぐちゃとしゃべるM岡はもういらないと思うのだが。女子の疫病神のような気がしてならん。

【日本語が亡びるとき-英語の世紀の中で-】水村美苗(筑摩書房)

ずいぶんエキセントリックな題名だけれど、本人はいたって真面目に、そして真剣に日本語の未来を憂いている。

作家の国際交流事業(ワークショップ)に参加した話に始まって、日本語(国語)のなりたち、近代文学の成り立ちなどに話が及ぶ。
どこか学術書を読んでいるような気分。ところどころ、読み返さないと意味が分からないところもあったりして。普段読み慣れてない文章だと、こうなってしまうなあ。

日本語という特異な言語が(漢字、かなが混じり合った言語。漢字も音読み訓読みがあり、ややこしい事この上ない)、なぜ「開国」「明治維新」という時代の波を受けながらも、廃れずに残り続けたのか。他の国では、「公用語」が支配層の言語になってしまう例が多いのに。その理由を解明してくれる。
まあ、この辺までは、なるほどなるほどという感じ。

最終章で、持論がヒートアップ。
日本政府はもっと国語に力を注ぐべきである。特に近代文学(明治、大正、昭和初期の文学)を読ませるべきである。

確かに、日本の近代文学は素晴らしい作品ぞろいだ。しかし、「読まれるべき言葉」として強調されるべきものだろうか。
現在の文学を、文章を嘆いているのだけれど、現在の文章は今までの文章、言葉の上に成り立っているものではないのか。全く別個のものとして、他言語の「悪影響」を受けて現代の文章はできあがっているのか。これは「進歩」ではなく「後退」なのか。

まあ、文章を生業としている人だし、日本語を愛しているからこその提言なのだろうけれど。あれもあり、これもあり、でもどの道が最良なのかは誰にも分からないのでは。

【食堂かたつむり】小川糸(ポプラ文庫)

小川糸を読んだのは初めてかなあ。

インド人の恋人に、ある日突然逃げられてしまった倫子は、田舎の母親のもとに帰る。ショックからか、声を出すこともできなくなり、コミニケーションはもっぱら筆談。実家で倫子は、一日一組限定の食堂を始める。

で、そこにやってくる人たちとの交流とか、子供の頃から反発していた母親との関係とか、そういう事が続いていく。
ラストは、どうも、いかにもって感じが、どうもねえ。

読みどころは、「食堂かたつむり」で出されるレシピ。その作られる過程が細かく説明される。まるで料理本、と、普段料理をしない者には、そう思えてしまうくらい。これって筋に何か関係あるんかいなとさえ思ってしまう。そこを著者は執拗に説明する。そこには、料理にしか心を開けない主人公の思い、というのもあるのかも。

でもなあ。この小説の、そこが一番のネックになっているような気がする。つまりは一人称小説であるところ。
これが三人称で淡々と綴られたら、一つ一つのエピソードがもっと深みのあるものになったんじゃないかと思ってしまう。でも、そうすると、料理のシーンは、必要になるのかということになるし。難しいですね。

【小さいおうち】中島京子(文藝春秋)

直木賞受賞作。
老いたタキは、女中として働いていた、戦前戦中の家での有様を書き残そうとする。若い奥様。その息子。ご主人は不慮の事故で亡くなり、奥様は再婚。しかしタキは新しい家でも女中として、奥様と坊ちゃんの世話をする。

「女中譚」の続きのような作品かいなと思って読み進める。戦時中の日本の、ありのままの生活が描かれている。著者の取材力というか、調査力というか、その賜物だろう。違和感なくその頃の日本にいるような気がする。

奥様と、ご主人の部下とのあやしい関係。疑惑。坊ちゃんの成長。色んなことが綴られる。なるほどなるほど、よく出来た小説だと思って読み進めていると。

最後に、意外な顛末が待っていた。
やられたなあ。読み終わったのは夜中だったんだけれど、目が冴えて眠れなくなってしまったよ。こういう作品なら直木賞はいくらやってもいいと思う。ああ驚いた。

停電

昨日の午後のことである。仕事中、いきなりフロア中の電気が消えた。えっ、と思う暇もない。フロアが真っ暗。パソコンの電源ももちろん落ちた。かろうじて動いていたのは、ノートパソコンのみ。数秒後(1分もなかったと思う)、電気がついてもとどおりに。だがパソコンは・・・。作業中のデータはすべてパー。

それにしても、こんなことがあるんかいな。今までも、フロアの一部で、過電流で(多くの場合はプリンタが電気を食うので)ブレーカーが落ちるということはあったけれど。フロア全体が停電になったのは初めてだった。

しばらくして消防自動車のサイレンと鐘の音が外から聞こえてきた。いやあ、どこかで火事でもあったんかなあ、と社員さんたちと話していたら、すぐ近くでサイレンの音がやんだ。あれ、これって結構近いんちゃうん、と言いつつ窓の外を見る社員さん。
あ、前に停まってるで。
どこにどこに。
窓から外を見ると、ビルの前に消防車が2,3台。そして歩道には野次馬ができていて、なぜかこのビルを見上げている。
なんかあったんかなあ。
うちのビルが、なんかあったんちゃう。
避難しょうか。
などと話しているうちに、ビルのアナウンス放送。
「ただいま関電で停電が起きました(変な言い方だと思った)。ビルの補助発電が作動し、その際に煙が上がりましたが、火災ではありませんのでご安心ください」
どうやらビルから煙が上がっていたらしい。それでみんなビルを見上げていたのだね。

ともかくおおごとにならんでよかったなあ。でも一斉にパソコンの電源が落ちたんですけど。ついでに課内のサーバも落ちたんですけど。幸い、大きな損失はなかったようで。

帰ってからニュースを見てみると、どうやら市内あちこちで停電だったらしい。しかもかなり長時間。すぐに復旧したうちのビルは、なかなか優秀だったわけだ。

地下鉄なんかには、まるで影響がなかったみたいで、よかったかも。府庁では知事が怒っていたようだが。ちょっとピントが外れているような気もする。

【ムーミン童話全集(3巻・5巻・6巻)】トーベ・ヤンソン(講談社)

ムーミンの童話を3冊も読んじゃった。こころ荒んでいるときには(なぜ荒んでいるのだ)、いい癒しになる。まあ人によりけりだろうけど。

【ムーミンパパの思い出】(小野寺百合子訳)
ムーミンパパが語る若き日の冒険。はちゃめちゃな内容なんだけど、ただのホラ吹きと笑い飛ばせない。それはムーミンパパがとてもいい人だから。愛すべき人だから。自慢話も多いし、つじつまが合わないところもいっぱい。わざとそうしてるんだろうけど。そこがまた面白いね。

【ムーミン谷の冬】(山室静訳)
ムーミンの一族は、冬の間は眠り続ける。つまりは冬眠するのである。だが、この冬は、なぜかムーミントロールは目が覚めてしまった。初めて体験するムーミン谷の冬。夏の水浴び小屋を勝手に住まいにするおしゃまさんや、ムーミンと同様に目が覚めてしまった奔放なミイらと、冬の生活をしなければならなくなるムーミントロール。

【ムーミン谷の仲間たち】(山室静訳)
ムーミン谷に住む人たち(人以外も?)を主人公にしたオムニバスもの。それぞれ寓意を含んでいるようだが、そういうのをしちめんどくさく考えずに読むのがムーミン流だと、僕は思う。「しずかなのがすきなヘムレンさん」と「ニョロニョロのひみつ」が好きかな。

どの話も、教訓的なことはなく(ちょっとはあるけど)、どこかに哀しさや寂しさが漂っている。そう思うのはそう思って読んでいるせいかもしれないけれど。ムーミン谷への憧れも湧いてくるけれど、案外「ニョロニョロのひみつ」のように、実際はそう楽しいものでもないかもしれないな。結局は今の、この時を生きるしかないのである。

【薔薇の名前】ウンベルト・エーコ(河島英昭訳・東京創元社)

上下巻でそれぞれ400ページ。ふぅ。読むのに苦労したけど、なんとか最後まで読み通した。ウンベルト・エーコの代表作。映画にもなった。その映画は10年以上(もっと前?)に見た。中世の、グロテスクな時代がよく映像化されていて、とても面白かった。

ローマの教皇派と皇帝派(このあたり、よく分からない)の交渉が行われることになった、僧院が舞台。ここにやってきた元異端審問官のウィリアムと、その弟子で見習い修道士のアドソ。そこで次々とおぞましい事件が起こる。ヨハネの黙示録になぞらえたような、修道士の死。真相の解明に乗り出すウィリアム。

さしずめ、ホームズとワトソンの関係が、このウィリアムとアドソになっていて(ウィリアムも「パスカヴィルのウィリアム」と呼ばれる)、事件解明へ、というのは推理小説の王道のよう。
しかし、この作品の特異なところは、至る所に散りばめられた知識と言葉。めくるめく、というのはこういう事を言うのだろう。殺人事件の解決とは別に、全く違う興味を読み手に与えてくれる。さらに、「キリスト教施設としては世界最高」の書庫。その迷路のような作り。その蔵書を一つ一つ挙げていくくだりなど、本編には大きな影響はないのだけれど、その丹念さに驚く。丹念さといえば、ウィリアムとアドソ、あるいはその他の僧侶たちとの、キリストの教義をめぐる論争、異端の実態を詳しく述べるくだり。ちょっと関係ないのでないの、というところに多くの言葉が費やされる。いやはや、もうお腹いっぱいになりそう。

で。問題がひとつ。
この翻訳が、実になっていない。なかなか読み進めれれなかった原因の一つになった。
「天の呪いを呪った」「彼の考えを考えた」などという言い方は、とんでもないと思う。そのほかにも、会話の部分で、「◯◯はこうした、(ここで読点)◯◯だったから。(ここで句点)」というような、「~から。」で終わる文章のなんと多いこと。こういう話し方はしないだろう、普通。それでなくても哲学的な論争部分や、キリスト教の教義に関わる部分など、分かりにくい言い回しも多いのに。
イタリア語では、つまりイタリア人はこういう言い方をするのだろうか。しかし日本語になった時点で、日本語に即した文法、言い回しにすべきだと思うのだが。

というわけで。
面白い作品だとは認めるが、できれば翻訳し直してください。

【サラの鍵】タチアナ・ド・ロネ(新潮社)

1942年7月のナチス占領下のパリ。フランス警察は4000人以上の子供を含む13000人以上のユダヤ人を一斉に検挙。「ヴェルディヴ」と呼ばれる屋内競技場に(水や食料、トイレも満足にない中で)1週間閉じ込め、そののちすべてのユダヤ人は強制収容所へと送られた。
その朝、10歳の少女サラは、幼い弟を「秘密の隠れ場所」である納戸に入れ、外から鍵を掛ける。きっと戻ってくると約束して。
それから60年後。フランス人の夫とパリで暮らすジャーナリストのジュリアは、「ヴェルディヴ事件」の取材を命じられる。当のフランス人さえも、ほとんど忘れ去っている事件。しかし取材を続けるうちに、自らの家族との意外な接点が浮き上がってくる。

物語の前半部は、60年前の出来事と、現在のパリとが交互に出てきて、二つの物語が並行して進んでいく。60年前の事件は、10歳の少女の目から見た当時の事件。ドキドキしながら読んだ。現在の部分は、すっかり現代劇。色男の夫と結婚したキャリアウーマン(死語か)の話。
これが、最後に一つになるんだろうなあと、うすうす感じながら読み進めると、意外に半分ほどで60年前の出来事はぷっつりと途切れてしまう。あ、どうなったんだろう? と思ったら、そこから先は現在の、つまりはジュリアと共に探りだすことになって、いよいよスリリングな展開になっていくのだ。
その一方、現在の生活では、厳しいというか虚しいというか、現実が待っているのだ。二人目の子供を身ごもるジュリア。喜んでくれると思っていた夫は、「50歳になって父親になるのは勘弁してほしい」と言ってのける。そのくせ、自分は愛人との付き合いを続けているのだ。子供はどうなる? そして、サラは今どこに?

1942年の事件は実際に起ったことだそうで、長らく忘れ去られていた(あるいは隠されていた)。シラク大統領の時代に、ようやく正式に謝罪が行われたそうだ。今でも「昔のことだ」という風潮があるらしい。この小説でも、サラのその後を執拗に追いかけるジュリアに対し、「60年前のことを蒸し返して、なんになる」といった空気がいつも周りにある。ややそれが、フランス批判(フランス人気質批判)とも読み取れる。別にフランス人を嫌ってるわけではないだろうが。昔のことをとやかく言うな、というのはどこの国でもあることだし。

どんな悲惨なことでも、思い出したくないことでも、実際にあったことを「なかったこと」にはできない。その事実とは、向かい合わなければならないと思う。

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