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スポーツ2題

昨日の夜の、サッカーアジアカップは興奮したなあ。
ぶたこは「最後の10分で決まると思うなあ」と言っていた試合は、90分では決着がつかず。延長後半の4分すぎにようやく決勝ゴール。
ゴールの瞬間は絶叫であったよ。夜中にもかかわらず。
MVPには本田が選ばれたけど、試合展開を見ていたら、長友か川島にやってほしかったなあ。特に川島の再三にわたるファインセーブには、それぞれのプレーに賞をあげたいくらいだった。準決勝の韓国戦でのPK戦もあったし。ああ、でも、1試合出てなかったか。そしたら長友は? あの運動量には舌を巻くね。決勝点のアシストもあったし。
って、大会を通して、ずっと真剣に見てたわけじゃないからなあ。川島も、決勝までは失点もしてたしな。
ともかく、勝ってよかったです。


一夜明けて。今日のお昼は大阪国際女子マラソン。今年からコースが変わって、より高記録が望めるという触れ込みだったけれど、寒さと強風のせいか、記録は平凡なものになったみたい。
とはいえ、赤羽と伊藤の競り合いは、見応えがあったな。

で、このレース、ペースメーカーがいるのだね。外国人のペースメーカーがとても大柄で、風よけになっていた感じだった。

しかしこの中継、実況席の解説が増田明美、ゲスト解説は高橋尚子、第2集団担当解説に有森裕子、さらにはバイクに乗っての解説が千葉真子という豪華版。遠藤キャスターにはTOKIOの国分太一。どこにお金をかけてるんだか。
民放のさがとして、途中でコマーシャルなんかで中断されるのがなんとももどかしい。
しかし、そのコマーシャルでも、日東電工のCMはマラソンを題材としていて(社員がマラソンを走るという設定のシリーズ)とても面白かった。2時間半の中で一番見ごたえがあったのが、このCMかも。
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エジプトのことは何も知らなかった。

チュニジアでデモが起こって、それがフェイスブックで広がって、政権が転覆したらしい。
その影響がアフリカ各地に広がっているらしい。

今日(1月28日)は、エジプトで大規模なデモ。何が起こっているのかよく分からない。どうして政府に反対する勢力があるのか。そもそものところがよくわかっていない。
ニュースで流れるのは、エジプトのムバラク政権が、長期政権で、独裁政治を行っているということ。
でも、実際、どんな政策をしているのか。独裁というからには、相当ひどいことをやってるんだろうな、と思ったりする。「独裁者」と聞かされて思い浮かぶのはヒトラーの面影。
しかし、そこまでひどくはないらしい。つまり大量殺戮とか粛清とか、そういうわけではないらしい。
そしてややこしいことに、中東地域にあってエジプトという国は親米路線をとっているらしい。
アメリカに近い国が独裁政治をしているって、ちょっと考えづらいところ。でも、ググッてみると、そのあたりの事情はだんだん分かってくる。

夕方あたりから、BBCのニュースをネットでチェックして、そのうちアルジャジーラが配信しているライブ映像なんかにも行き当たり、どういう状況かがわかるようになってきた。
どうやら、デモの制圧に成功したとは言いがたい様子。このまま政権転覆、ということも十分あり得そうだ。治安部隊の中から、制服を脱いでデモに加わる人も出てきているとか。どこまでそうなっているのかは分からないけれど。

ひょっとして、もっとこういう運動がこの地域(アフリカ)に広がるかもしれない。そうなったら、どうなるんだろう。もう、想像もつかないのだ。

【天地明察】冲方丁(角川書店)

冲方丁の、本屋大賞受賞作。450ページの大作だが、最後まで一息に読ませる筆のうまさがあるなあ。

江戸時代初期、幕府の碁打ち役をしていた渋川春海が、紆余曲折を経て、新しい暦を確立するまでの話。
「碁打ち役」とは、幕府要人の碁の相手をし、指南する役のこと。渋川春海は若くしてその役についたが、本人は碁よりも算術に興味津々である。
ある時、老中より、北極出地(北極星の位置から、現在地を測量する)の調査に加わるように命じられる。それから話はどんどん進んでいって、新しい暦の作成へ歩んでいくのだ。

主人公の晴海の人間像が、とても面白い。武士でもないのに帯刀を許されたが、刀が邪魔で仕方がない。また想いを寄せる女性には、気後れして何も言えないでいる。
ともに幕府の碁打ち役として覇権を争うはずの本因坊には、いつも肩すかしをくらわす(勝負にこだわっていないのだ)。どことなく飄々として、意気高く精進する、というところになかなか行き着かない。むしろ周りがその才能を羨み誉めそやし惚れ込んで、新しい暦づくりという一大プロジェクトに導いていく、という体なのだ。その話の流れが、とても面白い。

それだけに、最終章の、いよいよ晴海の作成した暦が日本の標準として採用されるかどうか、という段になってからの晴海本人の活躍が、ちょっと浮き上がりすぎる感じがしてしまった。策に長ける晴海は、どうもそれまでのイメージと離れてしまってね。

とはいえ、作品の質は上々。謎の天才算術士、関孝和との算術勝負も読み応え充分。この関氏が、なかなか本人が登場してこないところがまた、話の展開を面白くしている。やるなあ。

ただひとつ。時々見られる「くそ重い」とか「くそ暑い」だとかの表現は、あまり好みでないなあ。そんな表現をわざわざ使わなくても、とっても面白い作品なのに。

犬は嫌いじゃない。子供の頃から家には犬がいたし。小さいときはどちらかと言えばネコより犬のほうが親しみが持てた。猫って、どこか怖いところがあったし。

だから、道端で犬に会っても動じることはほとんどないのだよ。よほど大きくて凶暴な犬が歯をむいて「うううう」とうなってたら別だけど。

昨日(もう一昨日のことになるのか)、会社からの帰り。駅から歩いて帰る途中、犬が2匹(コージーかミニチュアダックスか、よく分からない)、道路でじゃれあっていたのだ。歩道のない一方通行の道路。工場が近くにあって車も頻繁に通る道。よくこんなところでじゃれさせているもんだと、前から思ってたよ。道沿いの家が飼ってるらしい。家の玄関のところで初老のおじさんがなにやら言っている。
このおじさん、ときどき家の前でボールを投げて、それを犬に取りに行かせる、なんてことをしてるんだけど、さっき書いたとおり、車が頻繁に通る道路でそんなことをするもんだから、時々車が急ブレーキをかけたりして、危ないったらないのだ。

で、昨日のことなんだけど。じゃれあってるようだった2匹のうちの1匹が、こちらに向かってきたのだよ。そして足元にすり寄ってきたのだ。じゃれているのかと思ったら「ふううううう」とうなり声をあげて、ふくらはぎを噛みよったのだ。びっくりしたよ。痛かったよ。思わず「うわっ」と声を上げて振りはらったよ。すぐに離れて、それでもしばらく「うううっ」とうなりながらついてくる素振りだったので、「こらっ」と言いつつ通り過ぎたのだ。

その間、飼い主のおじさんは何をしてたかというと、玄関の中から「ほれ、早う入らんか」と、犬を家の中に呼び入れていたのだ。噛まれたのは見えてるはずなのに、それにはひと言もなかったよ。犬のことしか見てないのだ。きっと。

前にこの家の前を通ったとき、それは朝だったけど、犬のウンチが落ちてたこともあった。きっとこいつが落としたのに違いないとふんでいる。あのおじさんが、ウンチの始末をきちんとするとは考えられない。

噛まれたところを確かめたけれど、ズボンは破れていなかったのでちょっと安心していた。しかし、帰ってからあズボンを脱いだら、噛まれたところに血が滲んでいたよ。ぶたこは「病気になったらどうするのっ」と大騒ぎだったが、マキロンで消毒して防水のバンドエイドを貼ってすませたよ。今日になっても痛みもないし化膿もしてないので、大丈夫だと思われる。

犬はつないで飼いましょう。飼い主の責任をもって。

ぴーけー戦!

ええ試合を見せてもらいました。今日までは、10人になっても得点したりという幸運が(実力ももちろんあるんだろうけど)続いていたけれど、そろそろ運の尽きかいなと思ってたよ。覚悟してたというべきか。
先制されたしな。
でも追いついて、同点のまま延長戦。もうこうなると目が離せません。
延長前半、ペナルティキックからゴールして勝ち越し。おお、このまま行くのか。
と思いきや。
延長後半、試合終了直前に、フリーキックから韓国の同点ゴール。解説の誰か(誰かわからん。多すぎて)が、
「(守る)人数が多すぎても、失点するんですよねえ」と言ってたのが現実になったなあ。たくさんの人間が(選手ですが)ひとところに固まって(ボールがあるからやねんけど)、わらわらとやってるうちに、ボールがすっと抜けだしてゴールに入る。あらあああああ。

そしてPK戦に。
GK川島くんが、すごかったです。韓国選手がどこに蹴ろうとしているか、分かってるみたいにゴールを死守。相手韓国のGKは、海外でのPK戦の経験がないということやったけど。こういうしびれる試合では経験がものをいうのかもしれませんなあ。

サッカーの中継は、始まる直前までは見るかどうするか迷うのだけれど、見始めると入り込んでしまいます。まあスポーツは全体、そういうことになるんだけれど。
次は決勝戦ですか。今度は、選手たちに経緯を表して、最初からちゃんと見てみようかな。そして応援しよう。

【人間の絆】モーム(中野好夫訳・新潮文庫/行方昭夫訳・岩波文庫)

サマセット・モームの長編小説。
ぼくはモームの良質なものは短編でこそ真価を発揮すると思っているので、あまり期待せずに読み始めたのだ。すこぶる評判がいいということもなかったし。まあ「モームの長編」という価値はあるだろうけれど。

で。やはりというか期待どおりというか、期待以上ではなかったのが正直なところ。
物語は、主人公フィリップの生まれから生い立ち、青年、挫折、そして結婚と、いわゆる成長小説。生まれつき足に障害があり、それを気にしつつ生活する少年時代。産みの親とは離れて(まもなく亡くなる)、牧師をしている叔父夫婦に引き取られる少年時代。牧師の後を継ぐかと思いきや、やがて絵の修業にパリへ。しかし才能は開花することなく、今度は医者を目指してロンドンで勉強。しかし、給仕女にうつつを抜かして、あげく株でしくじって一文無しに。住むところも無くなって、友人の勧めで洋品店に勤め、再び医師を目指し・・・と、いろいろ話はつづくわけなんだけど。

全体の話の流れよりも、それぞれの小さなプロットというか、ちょっとしたエピソードに気を取られてしまう。おかげで全体の印象はぼやけ気味。主人公のフィリップには、感情移入がしにくい。自分の障害を気にしすぎ。プライドが高すぎ。弱気なところがあり過ぎで、しかもそれに抵抗することもできない。

少年から青年にかけての前半部は、やや退屈。給仕女ミルドレッドの、奔放な生きかたに振り回される後半にはいって、俄然話は面白くなってくるが、逆に通俗的になってくるとも言える。それがこの作家の魅力の一つでもあるんだろうけれど。

時々饒舌に語られる芸術論や文学論が、全体の流れとは関係なく面白かったりする。つまりは、全体のバランスがあまりよくない作品なのだなあ。
それでも一つ一つのエピソードや、ちょっとした作中人物の言い回しに、モーム独特のユーモアやペーソスが生きているので、それを楽しむという方法もある。

初めから3分の2ぐらいまでは、中野好夫訳で読んで、後半3分の1ほどを行方昭夫訳で読んだ。同じ箇所を読んだわけではないので、単純に比べるわけにはいかないだろうけど、間違いなく行方昭夫訳のほうが読みやすい。中野好夫は英文学の大家だが、この訳はちょっといただけないと思うところが何箇所か見受けられた。ちょっと変わった言い回しみたいなのが出てくるんだなあ。わざとそう書いているフシがあるんだけど。行方訳は素っ気ないほどだけれど、それがモームの文体に合ってるんじゃないか(原文を知らずに書いてます)と思ってしまう。これから読むなら、行方昭夫訳をどうぞ。

能舞台でバロック

とても楽しい演奏会に行ってきただよ。大阪の真ん中、谷町にある「山本能楽堂」という能舞台での、バロックヴァイオリンとチェンバロを中心とした演奏会。バロックヴァイオリンがサイモン・スタンデイジ、中山裕一、チェンバロが中野振一郎、バロックチェロが曽田健、ソプラノが高見さなえ(敬称略)というメンバー。
能楽堂という、およそ西洋音楽とは関わりのない舞台で、バロックをやるとどうなるのかという興味もあった。

だいたい能舞台に、どういうふうに楽器類をしつらえるのかなあと思っていたが、チェンバロやチェロが座る椅子のところには赤い毛氈を敷いていた。そして演奏者はすべて白足袋。上は燕尾服なのが面白かったね。ソプラノもピンクのドレスに下は白足袋。まあロングドレスだからほとんど見えないんだけれど、入退場の時の橋(というのかなあ)を渡るときには、ドレスの下から白足袋というのが、面白かった。

で、肝心の演奏なんだけど。これがとても素晴らしかった。
会場の響きはどうなんだろうとか、ちょっと心配もしていたんだけれど、演奏者のそれぞれの音がとてもいい。多分いい音を創り出してはるんだろうなあ。バロック調の(そういうのがあるのか)まっすぐな音色がまっすぐ伝わってきて、妙な飾りがなくて、スッキリとしていてとても美しい。それでいてチェロとバイオリン、あるいはバイオリン同士のやりとりなどは、まさにまっすぐな音楽のやりとりで、バロックというよりもロックかジャズの即興のやりとりのようにさえ思えるスリリングさ。思わず身を乗り出して聞いてしまったよ。わたしらが座ったのは2階の一番前の座布団席で、それでも舞台とは程よい近さがあってとても聞きやすかった。ソプラノの高見さんも(第1部の2曲目だけだったけど)、この中にあってすんなり収まる歌を聞かせてくれた。いわゆるオペラ歌いではない歌い方が、今日のアンサンブルにスッキリ溶け込んでいた。響きがつかみにくい会場だったろうに、高音から低音までしっかり聞こえさせていた。前半は歌も含めてヘンデル一色。

休憩を挟んでの後半は、フォルクレのチェンバロ曲、ルクレールのバイオリンソナタ、ヘンデルのトリオソナタというプログラム。
チェンバロの中野さんは、おしゃべりも達者で、会場を和ませつつ曲目を紹介してくださった。演奏になると一気に音楽の世界へ。チェンバロという楽器、表情の乏しい楽器のはずなのに(音量が大きくなく、また音量の幅も狭い)、曲がうねりをあげて展開する。ルクレールのソナタは、超絶技巧。手元をじっくり見ても、どうやって演奏しているのか(近眼のせいもあるけれど)はっきりとはつかめなかった。ひえーっと思っているうちに曲は終わったのだった。すごい。
最後のヘンデルのトリオソナタ。再び2台のバイオリン、チェロの丁々発止のやり取り。リラックスとスリリングが同居する演奏。いやあ、ええもんを聴かせてもらいました。

これは「うえまちコンサート」という演奏会のシリーズのひとつ。常連さんもたくさんいるようで、会場は終始和やかな雰囲気。満員となったお客さんは惜しみない拍手を演奏者に贈っていた。
能舞台という会場。実はバロックにはぴったりだったのかも。

ごぉるっ!

サッカーは特に好きじゃない。でも試合を見始めるとはまってしまう。それはどんなスポーツでも同じなんだけど。
予備知識が全然ないので、実況アナが選手の名前を叫んでも、誰がどれやら。ワイドショーで、その前に活躍した選手などを取り上げるので、かろうじて有名選手だけは認識出来る程度。ワールドカップで活躍した本田とか遠藤とか長谷部だとか川島だとか。ちょっと気に入ったのは長友。小さな体で豊富な運動量。最後までちょこまかと走り回る姿は見ていて気持ちがいい。

さて。今日の試合。カタール戦。ドーハといえば「ドーハの悲劇」というのぐらいは知っている。しかも開催国との戦い。審判も・・・・となることもあるだろうし。まあ負けるかもしれんよなあ、ぐらいに思ってたよ。だから気を入れて見てなかったし、最初のゴールは風呂に入っていて見てないのだ。そういえばとテレビを付けたら1-1の同点。そして後半。始まって早々に誰かが今日2枚目のイエローカードとかで退場。ということは10人になったってことかいな。これはやばいんでないの。と思った瞬間、相手のフリーキックからのゴールが決まり勝ち越される。

これでもう勝負はついたかなと思ったよ。ところが、日本選手はやるねえ。そこから相手のスキを突くようなゴール。
そして試合終了間際にも。相手ゴール前、ペナルティエリアでの競り合いで、解説の松木氏が「ペナルティ、ペナルティ」と叫ぶようなもつれ合いからのゴール。
ロスタイムは4分とやや長め。「ドーハの悲劇」の再現にはならんよなあ、と祈りつつ(はや祈っている)見ていたよ。
そして試合終了。いやあ、よく勝ちましたね。10人で。しかも10人になってから2ゴールやもんなあ。
「こんなんやったら初めから10人でやったらええねん」
とは、ぶたこの弁。いや、そうはいかんでしょうが。

後半の同点、勝ち越しゴールを見れたのはラッキーやったかな。ほんま、最後まで走り抜いた選手の皆さん、お疲れさまでした。って、次もあるってことですな。

R25

今朝、地下鉄の駅を出たところで配っていたのだ。リクルートが発行しているフリーペーパー、無料の雑誌である。
東京方面では以前から配られていたらしい。いよいよ大阪(そして名古屋も、と書いてあっあた)に進出ということらしい。
「R25」という名前は、どうやら「25歳前後」「ローリング25」ということなのかな。その年頃の、つまりは若手サラリーマンあるいはこれから就職しようとしている学生などが対象なのかも。その倍ほど生きているおじさんにも配ってくれてありがとう。

さて。最近のフリーペーパーは内容が盛り沢山である。情報もいっぱい。こうなると普通の雑誌とどこが違うのかと思ってしまう。広告がやや少ないくらいかも。
とはいえ。ほしい情報が沢山載っているわけではない。もともと「これが読みたい」と思って手に取るものでもないし。

そう思いつつ読んでいたら、最後に石田衣良のエッセイが載っていた。連載ものでこれが第122回となっている。その内容がとても面白かった。新しい年を迎えて、ということで「新しい年を超楽観的に展望するというのが、今回のテーマ」となっている。
少子化、財政悪化、制度はボロボロの日本。しかし落ち込むことはない。今までが頑張りすぎたのだ。ようやく落ち着いてきたのだ。
「今のままの豊かさをそこそこ維持しながら、今度は新しい働きかたや生きかたを考えていく。経済成長を前提としない社会の在りかたをつくっていくというのが、つぎの10年の日本のテーマだ」
そこそこに生きる、というところに共感するなあ。ようやく、こういう意見の人が表に出てきたのか、と嬉しくなる。
うれしさのあまり、ついつい紹介してしまいました。

【ダロウェイ夫人】ウルフ(土屋政雄訳・光文社古典新訳文庫)

この新訳は素晴らしい。「意識の流れ」とは、こういうことだったのか、と思わせる。
出だしの、
「お花はわたしが買ってきましょうね、とクラリッサは言った」
という一文で、すっかりやられてしまった。
今までは「花は私が買ってくるわねと、クラリッサは言った」というのを読んでいた。このちょっとした言い回しの違いで、ダロウェイ夫人がパーティーを楽しいものと思っていること、うきうきしていること、そしてダロウェイ夫人本人がとても気立てのいい人であることがうかがえる。だから人気があって、パーティーには大勢の人が集まるのだ。というところに行きつく。
最後の
「そこにクラリッサがいた」
まで、できれば一気に読みたいところだった(できなかったけど)。そうすれば、物語全体の流れの中にゆったりと浸り続けることができただろう。途中に休みを入れても、流れをつかまえそこねなければ、なんとかなるんだけれど。

どれといって大きな事件が起こるわけではない(詩人セプティマスの自殺というのはあるけれど、それは伏線で主人公とは直接の関わりがない)。この小説の主眼はなんといってもその叙述方法。語り手が自由自在に入れ替わる。どうかすると過去と現在をも飛び越えて、こちらの心情からあちらの気持ちとさっと入れ替わっていく。特に
前半の広場のシーンと、最後のパーティーのシーンは、ひとつの出来事を別々の視点から書いているかと思えば、そこからさらに別の思いへとふわっと飛んでいく、そのさまはみごと。まるで夢の中で、自分の魂がいろんな人の中を飛び交っていくような気持ちになる。

そう、これは夢の話なのかもしれない。大きなストーリーはなく、しかしそれぞれの出来事には関連がある。セプティマスの自殺も、さっきは主人公とは直接関わりがないと書いたけれど、実はあるかもしれない、なんとなくそんな気もする、という匂いがどこかにただよっている。同じ時間を生きている限りは、どこかで繋がっている。それが人間なのかもしれない。

「お花はわたしが買ってきましょうね、とクラリッサは言った」で始まって、「そこにクラリッサがいた」でハタと話が終わったとき、「終わった」というよりも「最初につながった」という感覚になった。

【日々雑記】武田百合子(中央公論社)

ときどき無性に武田百合子の文章を読みたくなるのだ。たとえば人付き合いで疲れたとき。たとえば仕事の段取りがうまくいかなかったとき。たとえば気に入らないドラマを誰かが褒め上げたとき。ものごとをすっきりはっきりと見てすっきりはっきりと言い切ってしまう文章を読んで、すきっとしたくなるのだ。

武田百合子の最後の一冊。夫泰淳も見送り、娘の花(文中ではH)と二人暮らし。日々起こることを独自の目線で見、独自の文章で切り取っていく。小さなエピソードが次々と綴られて、出来のいいショートショートを数多く読んでいるような気分になるのは、著者の作品に共通するところ。

最後の作品ということで、いろんな人を見送る場面が多い。ネコの玉を含めて。大岡昇平、深沢七郎。それぞれとのエピソード。思い出話が多いのも、最後の作品らしいというか。いつもどこかに寂しさというか、冷たさのようなものを漂わせる著者なんだけど、それが色濃く思えるのはこちらの先入観かしらん。

映画「ドライビング・ミス・デイジー」

お正月映画(テレビでの)というのには、時期を逸しているが。深夜映画で放送していたのを録画して、昨日見た。
前にも見たんだけれど、今回は字幕スーパー。ローカルTVは時々こういう粋なことをやってくれる。

第二次大戦後から60年代半ば頃までの、ジョージア州。元教師のユダヤ人デイジーと、雇われ運転手の黒人ホークとの交流を描いた作品だ。デイジーにはアカデミー賞を受賞したジェシカ・タンディ。ホークはモーガン・フリーマン。

字幕スーパーのおかげで、ホークの英語が殆どわからない、ということがよくわかる。ぶたこにもなかなか聞き取れなかったようだ。途中からようやく慣れてきて、何を言ってるかわかるようになったらしい。

映画の内容は、再度見ても素晴らしい。ある一定の距離を保ちつつ、育まれていく友情というものもあるのだ。自分ではそれと気づかずに人を傷つけてしまうこと。知らぬ間に身についている偏見。それを超えるなにか。いろんなものが込められた映画だ。
最近は、TV放映される映画は大体の傾向が決まっているような気がする。こういう上質の、オスカーを取るような映画はゴールデンタイムからは押し出されてしまっている。昔の日曜洋画劇場なんかは、定期的にオスカー映画を放送してたのになあ。今はアクションものか魔法の世界かが、ローテーションで放送されるばかり。
まあ、DVDの普及などを考えると、視聴率が取れるものを放送しておけばいいという気になるのも仕方ないのか。

【一分間だけ】原田マハ(宝島社)

ファッション雑誌の編集部に勤める藍は、取材で訪れたペットショップで、処分されようとしていたゴールデン・リトリーバーを引き取ることになる。リラと名付けられた雌犬と、恋人の浩介との生活が始まる。やがて、犬中心の暮らしになっていくのだが。

初めは、犬との生活を綴る物語かと思ったら、途中から恋の行方が分からなくなったり、仕事上の(ファッション雑誌となると、話題に事欠かないようだ)問題が持ち上がったりと、結構バラエティに飛んだ内容に。

でも、最後は犬に戻ってきてしまうのだね。犬好き、ペット好きには楽しめる話だろう。

やや話の流れが美しすぎるかなあという気もするけれど。ここを打ち破ってほしい気もするし、これが原田マハの持ち味や、と納得する気もするし。と、微妙なところ。スラスラと読める文体を持っているから、大きな期待をしてしまうのだね。

ドラマ「トイレの神様」

年末年始に録りためたものをちょっとずつ消化中。今日は新春ドラマ「トイレの神様」
植村花菜の歌、及び著作をもとにしたドラマ。それだけだったら多分見もしなかっただろうけど、主演が芦田愛菜と北乃きいということで、見ることにしたのだ。あと、岩下志麻のおばあちゃんというのも気になった。

で。
芦田愛菜は可愛い。北乃きいも可愛い。その上、ふたりとも、可愛いだけじゃなくて、演技もうまい。お母さん役の夏川結衣もいい感じ。だけど、岩下志麻はちょっときれいすぎ。ドラマとしては、脚本がありきたりすぎ。セリフもあまりこなれていない感じ。ちょっとやっつけ仕事的(実際、時間がなかったらしい)。芦田愛菜は、このドラマに合ってたかどうか。取ってつけたようなセリフはやっぱり取ってつけたように聞こえてしまう。北乃きいも夏川結衣も、関西弁をよくこなしていた。岩下志麻は、どうにも極道ぽくなるのだなあ。出番は少なかったが、お父さん役の徳井優がいい感じだった。やはりネイティブの関西人は違う。芦田愛菜と二人のシーンが一番楽しめた。

あと、BGMの使い方が、実にセンスがない。BGMが流れるたびにぶたこが「あ~もぉ~!」。最悪なのは北乃きいがギターの弾き語りをしている、そのバックにピアノと弦楽が流れるところ。これが1シーンだけじゃなくて何度も何度も何度も出てくるのには閉口した。キーも違うし。どんなセンスをしてるんだか。

あと。ドラマとしてはありだと思うのだけれど、設定を無理やり植村花菜の歌に合わせたようなところが、逆に鼻につくというか、面白みがなくなってしまうというか。
元々「トイレの神様」は、歌の背景が曖昧な歌である。おばあちゃんと二人で暮らしていたのはなぜか、ということは歌われていないし、おばあちゃんとぶつかったのは何故か、ということもはっきりしていない。そのおかげで、聞いている私たちは、それぞれの家庭の事情、それぞれに親や祖父母とぶつかった思い出にひたることができるのではないか。つまり、歌詞の背景を曖昧にすることによって、誰の心にも響く歌になっているのだ。
ところが、ドラマになるとそうは言っていられない。ものごとの背景ははっきりさせなければいけない。それぞれのシーンの理由付けがいる。そうなると、見ている方は、歌ほどには感情移入できなくなってしまう。そこが辛いところだったなあ。

いっそ、全く違うシナリオにすればよかったのかも。おばあちゃんと暮らして、それを歌にしました、ではないようなものに。ぜんぜん違う設定で。そうすればもっとすっきりしたかも。

【いちにち8ミリの。】中島さなえ

中島らもの娘、第一作品集。「ガダラの豚」のあとがきがとても面白かったので、これはひょっとしたら、という期待半分不安半分で読んだのだ。

表題作は、ある神社の祠から、毎日8ミリずつ高台の端の方に移動する石の話。石と話ができる猿のソウタと、その飼い主である美術教師美澄(ソウタは密かに美澄に思いを寄せている)、毎年、石をもとの祠に戻すことで話題作りと人気取りに利用している神主などが織り成す物語。それをソウタの視点から描いているのがミソ。
「石」や「猿」や「カラス」からみた人間の姿。人間には伝わらないソウタの思い、石の思い。ななかな冴えてるでないの。話の内容も面白いでないの。やるでないの。少々書き足りないかなあ、と思うところもあるけれど。楽しさと哀しさのバランスもとてもいいと思うなあ。

「ゴリづらの木」は、ややありがちなファンタジー。思うようなところに落ち着く安心感はある。とはいえ、エピローグのつけ方がちょっと面白いね。

もう一遍の「手裏剣ゴーラウンド」は、このまま映像にしてほしいなあ。
客の入りが悪く、閉園間近となった遊園地。ある日園長のもとに忍者がやってきて、お前の祖先は抜け忍で、自分の祖先はその一族の長である。よって裏切り者のお前を斬ることにすると言われてしまう。だが明確な系図の証拠がない。そこで系図が手に入るまで、逃げないようと見張られることに。遊園地でつきまとわられるうちに、忍者は人気者に。だが忍者には「定年」があるのだった。
ドタバタ芝居のようであって、どこかほのぼのとする。凝った展開はないんだけれど、その分、映像にしたら面白くなるんじゃないかなあ。

これからどんな作品を書いてくれるのか、ちょっと楽しみ。

高校ラグビー決勝戦

なんとなく見てしまったのだが、見始めると目が離せなくなる。だいたいのスポーツはそうなんだけど。
今年の高校ラグビーの決勝戦は、東福岡-桐蔭学園。まれに見る好ゲーム。

下馬評では、東福岡が断然有利ということらしい。あんまり詳しくないのです。普段から気にしてるわけじゃないし。花園は一応地元なんですけどね。

開始早々、東福岡が先制トライ。これは、下馬評どおり、東福岡の一方的な試合になるのか、と思いきや、桐蔭学園が走る走る。体重差ではかなり不利な分、走りで勝負ということなのか。立て続けにトライを奪って、あれよあれよという間に21点差。

判官びいきで、桐蔭学園を応援していたので、なんとなくいい気分だったのだが、後半の途中から東福岡が力づくという形でトライを取りに来た。モールで押し込んでいってそのままトライが2本。そして試合終了間際に、密集から抜けだしてトライ。ゴールも決めてついに同点。
そしてそのままノーサイド。

あ、ラグビーって、サッカーみたいに延長戦とかPK戦とか、そういうのはないのか。2校優勝だと。そんなルールも知らなかったであるよ。

優勝監督インタビューも、両校の両監督。仲がいいみたい。見応えのある試合をありがとう。

【私の男】桜庭一樹(文藝春秋)

桜庭一樹の直木賞受賞作。
身寄りのない女の子腐野花と、その養父となった淳悟の、他人には明かせない関係と秘密を、時間を逆にたどって描いている。

ま、それだけです。
どうして直木賞なんかとったんでしょう。
というか。
どうして桜庭一樹は、楽しく読めないのかなあ。読み方がまずいのか。いらぬ先入観がはいっているのか。

子どもの虐待や近親相姦といった問題を扱ってはいるんだけれど。どこか表面的に見えるのだねえ。切羽詰ったところがない。章によって語り手が変わるんだけど(これって、やっぱり最近の流行りなんだろうか)、視点が変わったことによる面白さもあまりないのだなあ。
一人称小説なら、もっと心情を吐露してもよさそうなのに、そこまで踏み込んだ表現はない。あるいはカズオ・イシグロのように、「勝手な思い込み」もあってよさそうなのに、どこかに躊躇が見える。そしてなにより、全体が説明口調。

いきなり死体が出てきたり、殺人シーンがあったりして、ミステリーの要素もあるんだけれど、緊迫感があまりない。最初の章を読んで、「こうなるのかな」と思って読んでたら、ほんとにそうなったので逆に驚いた。つまり、仕掛けがあまりうまくいってなかったのだね。

最後に大どんでん返し! があるかと思いきや。あれがどんでん返しなのだろうか。ううむ。

ほんとのところ、どういう小説を書きたかったのだろうか。サスペンス? ロマン? 私小説? コメディ? どれも中途半端な印象なのだなあ。いろんなところで期待を裏切られた感じ。ほんとにこれで直木賞で、よかったのだろうか。

【赤頭巾ちゃん気をつけて】庄司薫(中央公論社)

なんとなく古い作品を読んでみたのだ。発表当時は話題になってたなあ。で、初めて読んだんだけど。そして何も先入観なく読んだのだが。

サリンジャーにそっくりやなあというのが、正直な感想。そして、「ライ麦畑でつかまえて」に比べると、明らかに表層的。というか、ときどき説明臭すぎ。ううむ。70年当時の、いわゆる「全共闘世代」の不安定な感じはよくでているけれど。なにか、どっちつかずの印象が残る。

ちょっとググってみると、やはり当初から「ライ麦畑」との類似性を指摘されていたらしい。先が見えない主人公の、ある一日。身勝手な女の子。解決の糸口を暗示する子供の登場。なるほどなあ。

とはいえ。
似てるからダメ、と一概には言えないものである。本歌取りという手法もあるのだし。
でもねえ。
「ライ麦畑」を読んだ時のようなドキドキ感や不思議な爽快感は、余り無いのも事実。これはなぜ? 主人公が自分に自信を持ち過ぎているように見えるからかな。

【蔭の棲みか】玄月(文藝春秋)

玄月の芥川賞受賞作。「大阪市の東部」にある、バラック集落(集落と言っていいのか)が舞台。そこには不法入国した韓国・朝鮮人、あるいは中国人たちが多数住んでいる。集落を取り仕切っている(地主になっている)永田は、絶対的な権力を持っている。戦後すぐ、この集落で暮らし始めたソバンは、戦時中に右手首を失っている。戦後補償の話が浮上して、過去の思い出にかられるソバン。しかし時代は変わっていた。

在日朝鮮人の話なのだが、時代に取り残されたような集落の情景が生々しく(舞台が大阪ということもあって)迫ってくる。
どうにもやりきれない話ばかりが続いて、気が滅入ってくる。どこにも出口がないようにも見える。こんな話は昔の「蟹工船」の世界のようにも思えるが、どこか身近に残っているような気もする。残っているのだろうなあ。どこか懐かしさも感じてしまうのは、年をとったせいかなあ。


朝鮮人の妻との距離感を日本人夫の視線で、盲目の娘との関係を絡めて描いた「おっぱい」は、やや軽めで楽しめる。
「舞台役者の孤独」では、どこか爽やかささえ感じる。この感覚はおかしいのか。苦々しい話を書きながら、作者は光を見出そうとしているのかも。読み間違えている?

【本は、これから】池澤夏樹編(岩波新書)

新年第一弾にふさわしい・・・・こともないか。
本についての、37人の様々な立場の人達が書いたエッセイ集。

本のIT化(IpadやKindleなどの)について触れた文章が多いのは、そういう事についてどう思うかという編集者からの要望もあったのだろう。

大方の人の意見は、本そのものが無くなっても困らない、要は内容であるということ。たしかにそのとおり。形態がなくなったからといって、文化そのものが無くなるわけはない。
だが。
一方で、そう言えるのはやはりたくさん本を読んできている人、本から何かを得ようと努力してきて、その努力がある程度報われた経験がある人だからかもしれない。という文章もいくつかあった。本という形態が大事じゃないかという意見。しかし、「だから、形態としての本は無くならないのではないか」というところに落ち着く。
つまりは、どちらの側からいっても、「本はなくならないよ」という楽観的な見方が大勢を占める。

そのとおりかもしれないな、と思う。
そして、形態としての本が無くなっても、情報としての文学(変な言い方だ)が無くなってしまうことはないだろうというのも、思う。

さて。
37人ものエッセイが並ぶと、気に入った意見、気に入らない意見、あるいは「なんじゃこの文章」と思うものも混ざってくる。気がつけば、たった37の中から、気に入る文章、気に入らない文章を取捨選択している自分に気づく。これは大して自分の役に立たないなと思ったら、ほとんど斜め読みしている。
こういう読み方は、「必要な情報だけを受け取りたい」という、ネット検索の意識とどこか同等のような気がする。そんなふうに本について考えているのか、自分は。それは、エッセイ集だから、新書だから、そうなってしまったのか。あるいは、いつもそんな読み方をしてるんだろうか。

本についての本を読みつつ、自分の本への対し方を考えてしまったのだった。
とりあえず。今年もよろしく、本たちよ。

年のはじめ

明けましておめでとうございます。
各地で寒波による被害も出ているみたいですが、みなさん元気でお過ごしでしょうか。

年始に当たっての目標、などといっても大きなことはできないのですが。
せめて毎日は、ブログの更新ができればいいなと思っています。
そう思って朝、目を覚ましたのに、すでに「今日」があと数時間で終わってしまうことに愕然として、ついなんでもないことを書いてしまいました。こういうのを「アリバイ的」というのですな。

さて。1月1日だからといって、特別に感慨はありません。テレビをつければ正月特番をやっているな、と思うぐらいで。
今年最初の仕事は、洗濯。「正月から洗濯ですか」とぶたこには言われたけれど、年末は不安定な気候が続いていたから、洗濯物がたまっていた家も多いんじゃないでしょうか。大阪は幸い、今日と明日は天気はよいようなので、溜まっていた洗濯物を片付けるのには絶好の1月1日、であるのです。

というわけで。今年もとりとめもなくブログ更新に励もうと、思っているのでした。


読み返すと、実にくだらん文章ではありますm(__)m

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