えらく間が開いたな。10日以上か。書いてる暇がなかったっていうか。日記にも書いたけど、「ヒマだけど本を読むこともない時間」っていうのが取れなかっただけでね。家でヒマやとついつい「書く」より「読む」方に行ってしまうのでね。おかげで読んだけど書いてない本がたまってきたな。ま、全部について感想を書かんでもええとは思うねんけど。ただ自分の記録のためにね。
忘れへんうちに、この間に読んだ本。
京極夏彦「姑獲鳥の夏」講談社文庫。
阿部昭「短編小説礼賛」岩波新書。
筒井康隆「短編小説講義」岩波新書。
渡辺武信「住まいのつくり方」中公新書。
ヨハネ・ベル「ベル神父 街を行く」中公新書
工藤庸子「プルーストからコレットへ―いかにして風俗小説を読むか」中公新書。
以上。
新書ばっかりやな。この新書は全部大学図書館で借りたもの。なんで新書ばっかりになったかっていうと、軽いから。大学図書館は家からは、自転車でいくとどおってことはないけれど、歩いていくとちょっとした運動になるぐらいの距離。そこまで重たいハードカバーを持って行き来するのはナア・・・と思ったわけ。以前、「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」を借りたけど、上下巻を別々に借りた。一度に持ってみたら、重たかったから。ついつい、軽い本(内容じゃなく)を選んでしまうのだな。
「姑獲鳥の夏」は市立図書館で借りた。こういうのは大学図書館にはあんまり置いてなくってね。村上春樹はあったかな。でも基本はハードカバー。重たい。もっと文庫を充実させてくれたらナア。とはいえ、大学の図書館なので文句は言われへんワナ。
舞台は戦後すぐの東京のどこか。どこか、ちゃんと書いてたと思うけど、東京の地理にはまったく疎いので、忘れてしまった。そういう細かい、実際に沿った設定はどうでもよくって、だらだら坂の上にある古書店「京極堂」とか、代々続いた病院とか、そういう場の雰囲気を盛り上げるような設定が面白い。
いちおう「推理小説」になるんだろうか。良くできたトリック、とかいうことではないけどね。全体におどろおどろしいというか、気持ちの悪〜い雰囲気が漂っていましてね。それを楽しんでるうちに、なんとなくトリックについても、事件についても納得させられてしまってる。騙されてるのは読者やな。しかし小説っていうのはどのみち、読者を如何にだますかってことかも知れへんから、騙されても気持ちいいんですよね。
純粋に推理小説を読もうと思ってると、がっかりさせられるかも。横溝正史の晩年のいくつかの小説に共通するような、怪奇趣味というか、そういうものは十分楽しめます。僕は横溝正史より、もっと昔の、江戸川乱歩とか、もっとマニアックな夢野久作とか小栗虫太郎とかと共通するものを感じましたね。特に人間心理の曖昧さをとうとうと論じるところなんかは、小栗虫太郎の趣味と共通するものがあるような。そういう趣味的な読み方をすべきなんやろな。そういう読み方をしたから、楽しめたよ。
ところで、この本はわざわざ「文庫版」と断ってあるのだけれど、あとがきとかには「内容、ストーリーに変更はありません」と書いてあるのだな。どういう違いがあるのだろう。もしかして、元のノベル版の方が面白いのか。なにか仕掛けがあるのだろうか。
小説論というか、小説の解説本を読むようになったのは、植草甚一の影響かしらん。自分では分からないのだけれど。
ベストセラーになった「短編小説礼賛」と、そのあとに書かれた「短編小説講義」を並べて読んでみると、どうしたって筒井康隆の方が面白いのだな。そんな比べ方は意味がないともいえるんやけど。科学とか政治とかの話題やったら、同じ事象を違う視点で述べるということはあるかも知れへんけどね。だいたい取り上げられてる作家も小説も違うねんから。
無理矢理違いを見つけようとしたら。阿部昭のは、短編小説がいかに面白いかの解説であって、その楽しみ方を多く述べているように思う。対して筒井康隆は、これからの短編小説について、もっと面白いことを期待しているような。さらに面白いものを期待しているような感じだ。いつもより真面目にね。いつもがどういうものなのか分からんけど。筒井節のようなものを期待するとダメ。もっと真面目に、短編小説と言う物を考えなさい。とでも言いたげかな。
どちらもなんとなく、モームの「世界の十大小説」に似てなくもない。まさか対抗しようとは思ってないやろうけど。短編小説にしても、小説の解説本となると同じようなものになってしまうのかな。それからいくと、植草甚一は変わってるってことか。
「プルーストからコレットへ―いかにして風俗小説を読むか」は、解説本というより紹介本かな。いや筒井康隆も阿部昭も、紹介本に近かったけどね。
プルーストの「失われた時を求めて」を初めて手にしたのは高校生の時やったな。図書館でえらい分厚い本があって、最初の方を読んだらなんとなくその世界に引き込まれて、借りて読んだんやけど。はっきり言って何が書いてあるのか、理解は出来てなかったと思うな。当たり前と言えばアタリマエやけど。本を借りるとき、たまたま図書館の係りをしていた英語の先生が、「ほほぉ、プルーストですか。ほほぉ」と呆れたような感心したような口ぶりやったのを憶えてるな。その先生の気持ち、今やったら分かるな。
だいたい高校生では、大人の心の葛藤とかが分からんかったし、なにより舞台となってる時代背景(もともと歴史は嫌いやった)とか貴族社会、社交界についてのしきたりとかその雰囲気とか、そういうものの理解がなかったら、どこが面白いのかと思うような話ではないかしらん。昔、テレビの日曜洋画劇場で、ビスコンティ監督の「山猫」をやったとき、淀川長治さんが力を入れてわざわざ30分延長して放送したのだったが、何が面白いのかサッパリ分からなかった。貴族社会の没落というのは、それがどれだけ心に響くものなのかっていうのは、日本人には分からんものかも知れへんなあ。同じようなテーマを持った「失われた時」を読んでも、分からんのはあたりまえかな。
とはいえ。この新書のようにかいつまんで、しかも「風俗小説として」の視点で要約してもらうと、なんだかとっても面白い大河小説のような気がして、また改めて読んでみようかなと思うな。あ、ちなみに最初読んだのは、この長大な小説の第1章、「スワン家のほうへ」だけ。さすがに続きをよむ気力はなかったのでした。
さらにこの新書、プルーストとともに同時代のコレットを同列に論じてるところが面白い。コレットって「青い麦」しか知らんかってんけど。それも読んだかなあ、どうだか、憶えてないくらい。読んだかも。でもどんな話やったか。たぶん読んでないな。っていうくらい興味のない作家やってんけど。この新書を読むとがぜん興味がわいてきたよ。
生い立ちとか私生活とか、そういう紹介もされてるねんけど。波瀾万丈ですね。こういうのを知ると、フランスって面白いなあって思うなあ。プルーストもコレットも同列で論じることができるねんもんなあ。そういえばカミュとかジュネとかボーボワールとか、革新的な作家ってフランスに多いような気がする。個性が豊かな。思い込みかな。
大学図書館で探したけど、コレットの本は全然置いてないみたいやった。今度市立図書館で調べてみよっと。
建築士の耐震強度偽装問題が取りざたされてる昨今ですが。「住まいのつくり方―建築家といかに出会い、いかに建てるか」を読んだのは、そういう問題があったからではなくて。元々建築に興味があったから。
しかしこの本の前半では、建築家の仕事や経費、その他が具体的に書かれてあって、なるほどなるほど、こういう仕組みになってるのかと納得することしきり。本来ならたいして面白くもないこれらの章が、なかなか興味深く読めたのは皮肉やったな。
それはさておき。本書の中程には著者の経歴のようなものもあって。どういう経緯で建築家になったのかとか。その時代はどうだったかとか、どんな先生にどんなことを教わっただとか。このあたりはよくある話。よくある話で個人的な話。
著者が設計した住宅に関する章もあるけど。平面図とかを示してくれて、どこにどう気配りがあるかを説明してくれていて。専門家というか平面図を見ていろんなことが分かる人には楽しいんでしょうけどね。あんまり変わったことをしてるわけではないので、そういうデザイン的な面白みはないな。ただ、個人の住宅でデザインを重視するあまり、「住みにくそお!」と思えるものを見るのよりずっとマシやけど。専門家には勉強になるんでしょう。
一番面白かったのは最終章「人生は暮らすためにある」やったな。短いけどね。家のつくりばっかり考えてないで、如何に住むかを考えるべきっていうのは同感やね。子供部屋中心の家づくりっていうのはどうかなあと前々から思ってた。ここではそれ以上に「書斎を欲しがるおとうさん」に疑問を呈していてね。家を造って家庭がないっていうひと、多いような気がするなあ。
各章に建築に関する本の紹介もありまして。ううむ。これは一長一短。中には辛辣な批評もありますがね。批評として面白いかどうか。なんて、こんなHPを書いてるわしが言うことではないか。すみません。
で。この著者に共感するところは、とっても映画好きらしいんですね。映画のシーンの話がよく出てくる。「ローマの休日」の影響がどうでてるかとか、ちょっとした部屋の説明でも映画のシーンになぞらえてたり。何かの映画賞の審査員もやってはるらしい。調べたら分かるんでしょうが、調べてないな。
一度にいろいろ書きすぎた。反省。ウソ。反省なんかしてない。なにしろ自分の趣味のページやからね。
「ベル神父 街を行く」もとっても面白かってんけど。またヒマなときに(何時や)ゆっくり書くことにしよう。
忘れへんうちに、この間に読んだ本。
京極夏彦「姑獲鳥の夏」講談社文庫。
阿部昭「短編小説礼賛」岩波新書。
筒井康隆「短編小説講義」岩波新書。
渡辺武信「住まいのつくり方」中公新書。
ヨハネ・ベル「ベル神父 街を行く」中公新書
工藤庸子「プルーストからコレットへ―いかにして風俗小説を読むか」中公新書。
以上。
新書ばっかりやな。この新書は全部大学図書館で借りたもの。なんで新書ばっかりになったかっていうと、軽いから。大学図書館は家からは、自転車でいくとどおってことはないけれど、歩いていくとちょっとした運動になるぐらいの距離。そこまで重たいハードカバーを持って行き来するのはナア・・・と思ったわけ。以前、「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」を借りたけど、上下巻を別々に借りた。一度に持ってみたら、重たかったから。ついつい、軽い本(内容じゃなく)を選んでしまうのだな。
「姑獲鳥の夏」は市立図書館で借りた。こういうのは大学図書館にはあんまり置いてなくってね。村上春樹はあったかな。でも基本はハードカバー。重たい。もっと文庫を充実させてくれたらナア。とはいえ、大学の図書館なので文句は言われへんワナ。
舞台は戦後すぐの東京のどこか。どこか、ちゃんと書いてたと思うけど、東京の地理にはまったく疎いので、忘れてしまった。そういう細かい、実際に沿った設定はどうでもよくって、だらだら坂の上にある古書店「京極堂」とか、代々続いた病院とか、そういう場の雰囲気を盛り上げるような設定が面白い。
いちおう「推理小説」になるんだろうか。良くできたトリック、とかいうことではないけどね。全体におどろおどろしいというか、気持ちの悪〜い雰囲気が漂っていましてね。それを楽しんでるうちに、なんとなくトリックについても、事件についても納得させられてしまってる。騙されてるのは読者やな。しかし小説っていうのはどのみち、読者を如何にだますかってことかも知れへんから、騙されても気持ちいいんですよね。
純粋に推理小説を読もうと思ってると、がっかりさせられるかも。横溝正史の晩年のいくつかの小説に共通するような、怪奇趣味というか、そういうものは十分楽しめます。僕は横溝正史より、もっと昔の、江戸川乱歩とか、もっとマニアックな夢野久作とか小栗虫太郎とかと共通するものを感じましたね。特に人間心理の曖昧さをとうとうと論じるところなんかは、小栗虫太郎の趣味と共通するものがあるような。そういう趣味的な読み方をすべきなんやろな。そういう読み方をしたから、楽しめたよ。
ところで、この本はわざわざ「文庫版」と断ってあるのだけれど、あとがきとかには「内容、ストーリーに変更はありません」と書いてあるのだな。どういう違いがあるのだろう。もしかして、元のノベル版の方が面白いのか。なにか仕掛けがあるのだろうか。
小説論というか、小説の解説本を読むようになったのは、植草甚一の影響かしらん。自分では分からないのだけれど。
ベストセラーになった「短編小説礼賛」と、そのあとに書かれた「短編小説講義」を並べて読んでみると、どうしたって筒井康隆の方が面白いのだな。そんな比べ方は意味がないともいえるんやけど。科学とか政治とかの話題やったら、同じ事象を違う視点で述べるということはあるかも知れへんけどね。だいたい取り上げられてる作家も小説も違うねんから。
無理矢理違いを見つけようとしたら。阿部昭のは、短編小説がいかに面白いかの解説であって、その楽しみ方を多く述べているように思う。対して筒井康隆は、これからの短編小説について、もっと面白いことを期待しているような。さらに面白いものを期待しているような感じだ。いつもより真面目にね。いつもがどういうものなのか分からんけど。筒井節のようなものを期待するとダメ。もっと真面目に、短編小説と言う物を考えなさい。とでも言いたげかな。
どちらもなんとなく、モームの「世界の十大小説」に似てなくもない。まさか対抗しようとは思ってないやろうけど。短編小説にしても、小説の解説本となると同じようなものになってしまうのかな。それからいくと、植草甚一は変わってるってことか。
「プルーストからコレットへ―いかにして風俗小説を読むか」は、解説本というより紹介本かな。いや筒井康隆も阿部昭も、紹介本に近かったけどね。
プルーストの「失われた時を求めて」を初めて手にしたのは高校生の時やったな。図書館でえらい分厚い本があって、最初の方を読んだらなんとなくその世界に引き込まれて、借りて読んだんやけど。はっきり言って何が書いてあるのか、理解は出来てなかったと思うな。当たり前と言えばアタリマエやけど。本を借りるとき、たまたま図書館の係りをしていた英語の先生が、「ほほぉ、プルーストですか。ほほぉ」と呆れたような感心したような口ぶりやったのを憶えてるな。その先生の気持ち、今やったら分かるな。
だいたい高校生では、大人の心の葛藤とかが分からんかったし、なにより舞台となってる時代背景(もともと歴史は嫌いやった)とか貴族社会、社交界についてのしきたりとかその雰囲気とか、そういうものの理解がなかったら、どこが面白いのかと思うような話ではないかしらん。昔、テレビの日曜洋画劇場で、ビスコンティ監督の「山猫」をやったとき、淀川長治さんが力を入れてわざわざ30分延長して放送したのだったが、何が面白いのかサッパリ分からなかった。貴族社会の没落というのは、それがどれだけ心に響くものなのかっていうのは、日本人には分からんものかも知れへんなあ。同じようなテーマを持った「失われた時」を読んでも、分からんのはあたりまえかな。
とはいえ。この新書のようにかいつまんで、しかも「風俗小説として」の視点で要約してもらうと、なんだかとっても面白い大河小説のような気がして、また改めて読んでみようかなと思うな。あ、ちなみに最初読んだのは、この長大な小説の第1章、「スワン家のほうへ」だけ。さすがに続きをよむ気力はなかったのでした。
さらにこの新書、プルーストとともに同時代のコレットを同列に論じてるところが面白い。コレットって「青い麦」しか知らんかってんけど。それも読んだかなあ、どうだか、憶えてないくらい。読んだかも。でもどんな話やったか。たぶん読んでないな。っていうくらい興味のない作家やってんけど。この新書を読むとがぜん興味がわいてきたよ。
生い立ちとか私生活とか、そういう紹介もされてるねんけど。波瀾万丈ですね。こういうのを知ると、フランスって面白いなあって思うなあ。プルーストもコレットも同列で論じることができるねんもんなあ。そういえばカミュとかジュネとかボーボワールとか、革新的な作家ってフランスに多いような気がする。個性が豊かな。思い込みかな。
大学図書館で探したけど、コレットの本は全然置いてないみたいやった。今度市立図書館で調べてみよっと。
建築士の耐震強度偽装問題が取りざたされてる昨今ですが。「住まいのつくり方―建築家といかに出会い、いかに建てるか」を読んだのは、そういう問題があったからではなくて。元々建築に興味があったから。
しかしこの本の前半では、建築家の仕事や経費、その他が具体的に書かれてあって、なるほどなるほど、こういう仕組みになってるのかと納得することしきり。本来ならたいして面白くもないこれらの章が、なかなか興味深く読めたのは皮肉やったな。
それはさておき。本書の中程には著者の経歴のようなものもあって。どういう経緯で建築家になったのかとか。その時代はどうだったかとか、どんな先生にどんなことを教わっただとか。このあたりはよくある話。よくある話で個人的な話。
著者が設計した住宅に関する章もあるけど。平面図とかを示してくれて、どこにどう気配りがあるかを説明してくれていて。専門家というか平面図を見ていろんなことが分かる人には楽しいんでしょうけどね。あんまり変わったことをしてるわけではないので、そういうデザイン的な面白みはないな。ただ、個人の住宅でデザインを重視するあまり、「住みにくそお!」と思えるものを見るのよりずっとマシやけど。専門家には勉強になるんでしょう。
一番面白かったのは最終章「人生は暮らすためにある」やったな。短いけどね。家のつくりばっかり考えてないで、如何に住むかを考えるべきっていうのは同感やね。子供部屋中心の家づくりっていうのはどうかなあと前々から思ってた。ここではそれ以上に「書斎を欲しがるおとうさん」に疑問を呈していてね。家を造って家庭がないっていうひと、多いような気がするなあ。
各章に建築に関する本の紹介もありまして。ううむ。これは一長一短。中には辛辣な批評もありますがね。批評として面白いかどうか。なんて、こんなHPを書いてるわしが言うことではないか。すみません。
で。この著者に共感するところは、とっても映画好きらしいんですね。映画のシーンの話がよく出てくる。「ローマの休日」の影響がどうでてるかとか、ちょっとした部屋の説明でも映画のシーンになぞらえてたり。何かの映画賞の審査員もやってはるらしい。調べたら分かるんでしょうが、調べてないな。
一度にいろいろ書きすぎた。反省。ウソ。反省なんかしてない。なにしろ自分の趣味のページやからね。
「ベル神父 街を行く」もとっても面白かってんけど。またヒマなときに(何時や)ゆっくり書くことにしよう。
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