学生時代、ある先輩に「本は買って読むもんやで。図書館なんかで借りたら、頭にはいらへんで」と言われたことがある。元をとろうと思わないので、一所懸命には読まない、というのが理由なのだそうだ。確かにそれはあるかもなあ。
と思ったのは前のこと。今やほとんど本を買うことがない。図書館ですましている。といって「元をとろうと思わない」ことはない。借りた本はできるだけちゃんと(どういうのがちゃんと、なのかは別として)読もうと思ってるし。実際よお読んでると思うしな。
もおひとつ。本を買った方がいいという理由があって。どこかに誰かが書いてたんやけど。渡辺武信やったかな。建築家の。なぜ本が整理できないのか、という文章の中やったと思うけど。本はその人の歴史そのものやったりするんやな。今までどんな本を読んで来たかということが、そのまま「今までどんな人生を歩んで来たか」と言うことにつながってる。だから本棚に並んだ本を見たとき、その人の人生が一目瞭然となるのだそうで。そして、それは他人よりも本人が一目瞭然度が高いのだそうで。だから自分が買った本は「人生そのもの」という気になって捨てられないのだとか。
となるとですね。今のわしのようにほとんどの本を図書館から借りて済ませておるということは、歴史がない、少なくとも「一目瞭然」とはならないわけですな。それってどうよ。どうともないな。そういうのを眺めて喜ぶというのも分かるけど。まあ、ここにこうやって書いてることだけでも十分かもな。
さて、最近読んだ本。エマニュエル・カレールの「嘘をついた男」(田中千春訳・河出書房新社)は、1993年にフランスで起こった、一家殺人事件のレポート。フランス郊外で火事が起こった。夫婦と二人の子供が火事に巻き込まれ、辛うじて夫だけが重傷を負いながらも奇跡的に助かった。別に暮らしている夫の両親の家に行くと、両親は殺されていた。さらに、死亡した妻と二人の子供の遺体を調べてみたら、火事が起こる前にすでに殺されていたことが分かった。
重傷を負った(最初は重体やった)夫の職場はWHOだということで、ジュネーブのWHO本部に連絡を入れたが、そういう人は働いていないという。さらにいろいろ調べてみると、この男の学歴も職歴もすべて偽りだった。そして、両親と妻と二人の子供を殺して、家に火をつけたのだった。
作者のカレールは何度か犯人と文通もし、事件の経過も調べて書いてるネンけどなあ。ちょっと突っ込みが足りないかなという印象やな。前に読んだ「スモール・サクリファイス」は、あまりにも細部にわたって詳細に書かれていて、途中ちょっと飽きたりしたんやけど、こちら逆に突っ込みが足りひん。勝手なもんやな、読者は。
最初の書き出しとか、ちょっと詩的な小説みたいやったから、おんなじ犯罪追跡小説でも、違うテイストみたいなものがあるのかなあと思ってんけどな。まあ、違うテイストはそのとおりやったけど。
なんでこの本を読もうと思ったかって言うと。最近どうも外国文学というと、アメリカ文学ばっかり読んでるような気がしてね。たまには違う国の、それも新目のものを読んでみたいなあと思ったわけ。ところが図書館の大部分を占めてるのがそもそもアメリカ文学なわけですな。映画はハリウッド、文学もアメリカ文学か。ちょっとねえ。
少ない中から選ぶと、どうしてもフランスものになるみたいでね。というのも、アメリカに次いで多いのがフランスものなんですね。イギリスのもの、となると、これはもう古典になってしまってね。ただしこれは市立図書館の話でして。大学図書館は、もうちょっとだけいろんな国の本が集まってます。
ミステリを読みたくなって。アガサ・クリスティーの「オリエント急行の殺人」(中村能三訳・早川書房)を読み始めたら、面白くって一気に読んでしまいましたがな。映画にもなった、アガサ・クリスティの代表作の一つなんやけど、今まで読んだことがなかったんやな。意外にすらすらと読めてしまったし、読んだあとの気分もよかったな。こういうのって、ミステリには珍しいかも。純粋に、推理小説かと言われると、そうでないかもしれへんけど、面白いからええやないの、と僕は思いますね。こんな展開あり? はい、ありでしょう。あってええやん。
なんといっても、乗客の証言が積み重なっていくに連れて、組み上げられていく一つの事実、という組み立てがなんとも面白くって。ちょっとずつちょっとずつ、一つ一つのブロックが組み合わされていく面白みがあるんですね。それって推理小説の醍醐味と言えるかもね。
講談社文庫の創刊30周年を記念して書かれた「「ABC」殺人事件」は、そのアガサ・クリスティの「ABC殺人事件」にかけて、5人の作家によるオムニバス作品集。有栖川有栖、恩田陸、加納朋子、貫井徳郎、法月綸太郎の作品が納められてます。
テーマは決まってるけど(テーマと言うべきか)、スタイルも設定もそれぞればらばらの作品群は、ミステリ雑誌を読んでるような面白さはあったな。ミステリ雑誌って読んだことないけど。こんな感じなのかなと思いつつ読んだ。
それぞれの作家で好き嫌いとかも分かれるでしょうけどね。実は5人とも今まで読んだことがなくって。まるっきり知らん人のを読むのもいいもんですな。5人の中では(僕の好みでは)恩田陸の「あなたと夜と音楽と」が一番面白かったな。だいたいラジオのDJ二人の会話だけで話が進んでいくっていう、そのスタイルからして「やられた」って感じでね。それと、どこかこの人、人物に対する視線が暖かいような気がするねんなあ。ほかの4人に比べて。まあ、この作品に限ったことなのかどうなのかはわからヘンねんけど。実を言うと、読みながらなぜか胸にジンと来て、うるっと来たところがあったんですよね。どこやったかなんて思い出されへんねんけど。ミステリを読んでそんな気分になるなんてなあ。あ、宮部みゆきにそういうのがあったな。ほかの作品も読みたくなってきた。
阿川佐和子と檀ふみのリレーエッセイ「ああ言えばこう食う」(集英社文庫)は、料理雑誌「TANTO」に連載されていたものがほとんどやから、もちろんタイトルどおりに食べ物の話が多いわけです。そしてふたりの食の趣味、考え方の違うこと。それだけ違うのに、二人の仲のよさ。本当にさわやかですな。気が合う友達が居るってことはいいことですね。ただこのふたり、どちらとも、付き合うとなるとちょっと疲れそうな気もするんですが。
ひいふう。ようやく最後の本、植草甚一スクラップブックの6、「ぼくの読書法」(晶文社)にたどり着いたぞ。
前に読んだ「古本とジャズ」に収められていて、すでに読んだものもあったんやけど。読んでる途中で「あ、これもう読んだやつや」と思いつつ読むのもまあたまにはええモンやろうと思って(というより、初めに選り分けるのがめんどくさかったのだが)だだだっと全部読んでみました。
いろんな時代の文がまぜこぜになって集められてましてね。だから時代によって書き方がずいぶんと変わってきてる。それが隣り合わせになってたりするんで、ときどき「あれっ?」とか思ったりするですね。なかにはちょっと退屈なのもある。それがだいたい真面目に(もちろん、植草甚一にしては、という注釈付きやけど)書かれたものなんやな。この人、案外(失礼!)真面目な人ヤッたんやなあ。で、その自分の真面目さをちょっとはすかいにして、それで文章を書いてはったんやなあ。などと勝手に想像してみたりするのですな。
それにしても。続けて植草甚一を読んでるなんてどうかしてるよな。大学図書館では5冊しか借りられへんのに、そのうちの2冊が植草甚一。かぶれてる。知らん間に文章も真似してるみたいヤシ。
大変な読書家でいらして。それも洋書の古本をニューヨークでたらふく買ったりしてはる。「ひらがなを読んでるようなもんだから、日本語より英語の方がすらすらと読めるようになった」なんてのたまわってはる。「本はどのように買うか」という文章の最後に
「洋書はテレビの外国語講座などをまめに聞いている人ならば、だいたいの見当はつくでしょうが、字引を引いて筋が分かるまでは5年はかかります。これは大変な作業ですが、これを一度やるとあなたは必ず人が変わってしまいます」
そうなのか! 今から5年もかかったら50代半ばになりそうなんやけどなあ。「人が変わってしまいます」という言い方は、そそるものがあるなあ。幸い(かどうかは分からんが)わが家には洋書が何冊かあるから、ちょっと挑戦してみようかしらん、などと思ってしまうところなど、ますますかぶれてしまっていることの証拠なのだな。
この記事のトラックバックURL
http://tacobu.blog13.fc2.com/tb.php/1289-ab4eebca
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック