今日も仕事の帰りに大学の図書館に寄って、本を5冊借りてきた。昨日も市立図書館から8冊も借りて来ているのに。
これが「無料」(大学の方は登録料を払っているけれど)の楽しさ気楽さなのだな。今日借りてきた本はどれもハードカバーで、5冊になると結構な重さになったのだが、それもまた心地よし、と思うくらい本好きなのだなあと改めて思うのだ。

古典の新訳がここのところ次々に出ているようで、とても楽しい。「名作」と呼ばれているものでも訳の出来不出来によってわくわくしながら読めたり、読むのに苦労したりといろいろと差が出てくるものだ。特に古典はね。

カポーティの「冷血」は前に大学図書館に行ったときたまたま目について、そういえば映画「カポーティ」も見たかったけど、結局近所の映画館では上映してくれなくて見損ねてしまった、あの映画の中心になったのがこの小説だったなあ、と思いつつ、まあ読んでみようと思ったわけ。
以前からカポーティの最高傑作と呼ばれていることは知っていたのだけれど、どうも「ノンフィクション・ノベル」という呼び名に怖じ気づいて敬遠していたのだな。

そして手にとってから気がついたんだけど、これって最近の訳本なのですね。同じ新潮文庫から別の訳で出ているのがあって、てっきりそれと一緒だと思っていた。
前の訳がどんなのだったかは全然知らないんだけれど、この訳はとてもいいです。まず字が大きいし(訳と関係ないな)、紙の質もいい(これも関係ない)。
英語を日本語に直しました、という感じがあんまりしない。これがいい。自然に読み進むことができる。特に会話体が多いので、素直に人の話を聞いている感じが出ていていいなあと思った。

いいなあと思ってはいけないのか。話の筋は、ちいさな田舎町で起こった一家4人の惨殺事件。それをいろんな人の証言で組み立てていく。まるでひとつひとつのピースをちょっとずつ組み上げて、一枚の大きな絵にするように。そうジグソーパズルのように。
こんな本が書けたカポーティの能力というか執念というか、そういうものに感嘆してしまった。そして取材(おそらく膨大な聞き込みを行ったんだろう)をしているカポーティ本人が全く表に出てこない、その構成の見事さ。
確かにこれを「ノンフィクション・ノベル」と呼ぶ気持ちが分かるなあ。単なるノンフィクションじゃない。といって創作でもない。
上質の「再現映像」を見せられたような感じだ。映像が目に浮かぶ。




赤瀬川源平の「こどもの哲学・大人の絵本」というシリーズがあるのだな。その中の2冊、「ふしぎなお金」と「自分の謎」を読んだ。

どちらもいわゆる「哲学本」と呼べるものなんだろう。お金について、自分について、その謎の部分を「なんでだろう?」と素朴な疑問から始めて話を掘り下げていく。そのあいまには著者自身の挿絵をはさんで。そこが「大人の絵本」ということか。
絵入りの哲学書というのはよく見かけるな。「ブッタとシッタカブッタ」なんかは面白かった。
ああそういえば、「チーズはどこへ行った」だとか「バターは誰が食べた」だとか「ミルクはいつの間に搾った」だとか(ウソ)いう本も、一時期いっぱい出ていたな。どれも「すぐに読める」というのが売りだった。そして「その割には役に立つ」ということも。

「その割に」とは失礼な言い方だな。でも「すぐに読める」というのは確かだったようだ。僕も「チーズ」はすぐに読んでしまった。実につまらなかったけれど。

この赤瀬川源平の2冊もすぐに読める。あとがきで著者自身が触れているけれど、「読まれ率」というのを考えると、
「買ったけれども読まない本より、ちゃんと読まれる方がいい」
というのも一理ある。というか、書いた人はもちろん読んで欲しいわけやからね。でもそれを調べる手だてはない。本を買った人にいちいち「最後まで読みましたか?」なんて聞いてられへんもんなあ。

それはともかく。この本は「チーズ」よりは10000倍ほどは楽しいし、考えさせられるし、面白いです。
ただ、すぐに読めてしまうので、逆にこれに1200円(定価)(+税)を払う気になるかどうか。
まあ「画家」赤瀬川源平の挿絵はあるんだけれど、それで価値がぐんと上がるわけでもないし。
でも何回も繰り返し読んで「ああそうやなあ・・・・」と思う分にはいいのかも。

そうやなあ、しょうもない長編小説を1回読むより、これを3回ぐらい読む方が楽しいかもね。だったら妥当な金額なのか。


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